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鬱かれ様です

数日間、徹底的に落ちている。気分が。あまりに晴れ晴れしないものだから、彼女に八つ当たりに近いことをしてしまった。申し訳ないと謝ってハグをしたら、目がウルッとしてきて、怒りはどこかへ消え、哀しみが胸の奥からグワッと姿を表した。

とはいえ、これは鬱なんじゃないかと思うくらいのネガティブさだ。あまりにも元気が出ない。季節の変わり目のせいなのか。頭痛も酷いのでロキソニンを飲んだり、酒を控えて睡眠の質を上げたりしようとしている。

何をしていても、ずっと責められているような気持ちといったらいいのだろうか。一言でいうと、惨めさを感じている。自分がまるでケダモノになったかのように。蔑まれる対象になったかのような。

追い込まれる。思考が回る。生きづらさの根源には社会へうまく馴染むことができないまま、ここまできてしまったという空虚感がある。それでも人生は続いていくわけで、咄嗟に逃げることはできない。

言葉にするのははばかられるが、「死ねばいいんだろ、死ねば」と思うこともある。奈落の底で這い回るゾンビになったかのような気持ちでいると、30時間くらい寝ていた弟が起きてきたので、「生きていてよかったよ」と言って少し会話もした。弟も同じような気持ちでいた。

二人揃って苦しんでいる。弟の人生を知っている身としては、「生きているだけでありがとう」と思う。それは鏡だ。俺にだって言ってやらなきゃいけないことなのだろう。

精神的な苦痛というのは、中途覚醒したときにもある。このごろ夜中に頻繁に目が覚めて眠れなくなってしまう症状に悩まされているのだが、その間ずっとネガティブすぎる思考の波が襲ってくる。そのとき唯一、自分を助ける方法がある。神様を呼ぶのだ。

神様、助けてくれ。苦しい、苦しい。もうだめだ。そうやって自分の中にいる神様に問いかけると、いつも必ず優しい言葉で返事をしてくれる。

「大丈夫かい。君はすごいよ。生きているだけですごいよ。十分頑張っているよ。頑張りすぎてつらくなっているんだよ。ゆっくり休みな」

どんな悩みに対しても、「神様」だから、心優しいことを言ってくれる。そしてそれは言うまでもなく、自分自身なのだ。

だが不思議と起きているときは神様を呼ぶことが難しい。意識がはっきりしすぎているからだろう。じゃあどうすればいいのか。いつもこうやって調子が悪くなって追い込まれると文章を書くことになる。

「嫌われてもいい」。そういうのは簡単だ。だが実際に嫌悪感を示されるとなかなか堪える。それが自分に起きていないことであっても、そうだ。他の誰かが誹謗中傷をくらっているのを見ると、自分と重ね合わせてしまって心が苦しくなってくる。

自分は自分、人は人。そういう態度で過ごせたら、どんなに楽だろう。生きていく以上は関わりが生まれる。苦痛を感じるたびに寝込む。だが気付く。苦痛がない人生には気付きもない。

追い込まれすぎて動画を撮ったので、もし暇がある方は御覧ください。

上の動画でも話しているけれども、”世界から嫌われているような感じ”がしてたまらなくしんどくなるときがある。自分の一挙手一投足に何度も「違うでしょ、そうじゃないでしょ」とツッコミをくらっているような。そしてそれが自分自身の声であるということもわかっている。

もちろん何者にもなれないわけである。そうして生きてきて、「何者にもなれなくてもいいんだ」と言う。でも、振り返ってみると、何者かになろうと必死にもがいてきた自分を発見してしまう。

これからのことはわからないが、結果的に何者にはなれずとも構わなくて、何者かになろうとしてきた途上で、生きていく上で大切なことを学んできたはずだ。

先月からエレキギターを始めた。YouTubeの動画を見ながら、必死にコードを覚えた。たったの一ヶ月だけど、ちゃんと上達していくのがわかる。それがめちゃくちゃ楽しかった。何をやっても成長の実感がなかった俺が、この前まで押さえられなかったコードが押さえられるようになる。たったそれだけのことが、本当に嬉しかった。

夢に死んだ父親が出てきて、現実のときと同じように、父自身が犯した罪を、自分たち兄弟に押し付けてくる。海の中に沈んでいって、目が覚めて汗が止まらず、水を一気飲みした。

父のことを思い出すことは普段はあまりないのだが、それでもたまに会話の流れから、そういう話題になる。昨日も彼女とおしゃべりしているときにひょんな話題から、話の内容が自分の父親の話になっていって、それで自分が父にされたことを加速度的に話してしまった。よく彼女も狼狽えずに聞いてくれると思う。

「こんなことやあんなことをされた!」。どんどん怒りが湧き上がってきて履いていたスリッパをガチめのあした天気になあれバージョンで遠くへ蹴り上げた。

人が心の中で何を思っているのかなんてわからないし、そんなことを推測する必要もない。自分ができることは、目の前の生活を楽しむことのはずだ。それなのに、人と同じであることを夢見てしまう。

昔の日記を読んでいたら、ニューヨーク出身の編集者であるスーザン・ゴードンの「孤独だということは人と違う人間だということ、人と違っているということは孤独になるということ」という言葉がメモしてあったのを見つけた。

自分が「ふつう」なのか、そうでないのか、あまり考えたことはないけれども、どちらかといえばふつうではないのだろう。

人と違うことより、人と違うんだと思うことのほうがつらい。自ら、自他を区別して考えてしまうことがつらい。落ちて、落ちきって。自分には何があるのかなと考えた。

ふつうの生活があった。スーパーへ野菜や肉を買いに行った。バレンタイデーに弟がショートケーキとシュークリームをケーキ屋さんで買ってきてくれたから、ホワイトデーに別のケーキ屋さんからフルーツショートとカスタードシューを買ってきて、弟に渡した。箱を開けて、すごく嬉しそうな顔をして喜んでくれた。

俺には自分にとっての愛すべき日常があって、その幸せを噛み締めることをきっと忘れているのだ。

誰が悪いとかじゃない。幸せとか不幸せとかそんなことはどうでもいい。ふつうの、いつもの幸せを思い出せたら、きっと傷つきにくくなる。そう思った。

どんな人生であっても、じゃあ自分の中は神様はなんて言うのだろうか。そう考えてみると、きっと何一つ文句も言わずに、仮に言うなら、きっとそれは叱咤激励で、きっといつも優しい言葉を投げかけてくれるはずだ。生きていてくれてありがとうね。いつもありがとうね。そう言って、たとえ何が人と違っていたとしても、あたたかくつつみ込んでくれるはずだ。

もう少し、もう少しだけでいい。生きよう。それを繰り返しているうちに寿命で死ねたらいい。

生きてます