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女の子「だって」なんて思ったことなかった

人、人、人で溢れかえっている休日の池袋駅前。ときどきツンと鼻をつく不愉快なゴミの匂いは異国の街並みを思い出す。

写真の現像をカメラ屋さんでお願いしている間、本屋さんでフラフラと写真集を物色していると、いつの間にか18時を回っていた。まだ明るい街並みに、季節の変わり目に気づかされる。

空腹によってうなだれていた顔をふとあげると、高いビルの上に「女の子だって甲子園」という文字が見えた。それは、女子野球WEBコミック『花鈴のマウンド』の広告看板だったとあとで気づいたが、妙にこのキャッチコピーが頭に残り続けていた。

戦う女の子の象徴・セーラームーン


私を形成したといっても過言ではないのが、「美少女戦士セーラームーン」である。可愛いコンパクトに、短いスカート、キラキラとした変身シーンをビデオが擦り切れるんじゃないかってくらい何度も何度も見ていた。

セーラームーンはよく「戦う女の子」の象徴として話題に出るが、物心がつく前から見ていたため、そもそも「女の子は弱い」「戦えないもの」という認識がなかったように思う。

だって、そんな小さい時に「女の子だから」なんて言われてあからさまにカテゴライズされることなんてなかったし、認識していなかった。

私はセーラームーンと同じ女の子だという事実だけで、1人の人間として、守られるのではなく、戦っていくものなんだと自然に思っていた。

成長していくにつれ少しずつ男と女の違い、女が男よりも弱い立場だというのが社会の認識だと知り、セーラームーンがなぜあれだけ流行ったのかに気づいた。

そして、性別も国籍も関係ない子供の時の「なんでもできる」は、いつだって環境や社会の常識によって簡単に塗り替えられてしまうことも。

「だって」と思いながら生きていない


頭に残っていた「女の子だって甲子園」のキャッチコピーの意図はきっと違うところにあるとは分かりつつも、「だって」という助詞を使うと、なんだか見えないだれかよりも女の子を下げているような気がした。

性別のことを話しだすと、フェミニストだなんだかんだとか、その面倒臭さにあえて関わらないようにする人たちがいることも知っている。

しかし、ここで私が書き残しておきたいのは、私は女に生まれてよかったと思っていること、これからも1人の人間として戦っていくということだけだ。だから、どんなときも女の子「だって」なんて思わない。

私という人間がやるかやらないかの話なのだ。

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