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【小説】A Life

夏は、いつの間にかやって来る。時々、夏が七月から始まるというのが嘘のように聞こえるほど六月は暑い。自分だけ人とは違う体なのだろうか。人と違うのは当たり前なのに、感じ方の背景や順序が違うだけで劣等感を感じてしまうのは、心の奥底では、人生に正解があると思っているからだろうか。

少しでも暑さから逃れるように下を向いていると、冬の時より影が短くなっていることに気づいた。
暑さから逃れることを諦めて顔をあげると、電光掲示板の次に来る電車が遅延する知らせに目が止まった。

少し時間ができたが、こういった意味のない時間は好きだ。音楽を聴く時間がある。本を読む時間がある。身嗜みを整える時間がある。ただ、本当は安心するだけの時間が愛しいだけで、特に何をする訳でもなかった。

少しでも意味のある時間にしようとする時は決まってエナジードリンクを飲む。相変わらず、今日も自動販売機の前に行き、エナジードリンクを買った。

八月になれば、単独ライブも始まる。それも過ぎ去って年末年始になれば、大量のネタ番組が待っている。何も始まっていないのに今後のイメージだけは完璧で、チャンスだけを待っていた。そうすれば、自分も変わることができると本気で思っていた。

「三番線の列車は、現在遅延をしております。大変申し訳ありません。」

遅延を詫びる駅員のアナウンスが聞こえ、自分が駅のホームで電車を待っていたことに気づいて、我に帰った。まだエナジードリンクは半分以上残っていた。

このアナウンスのように、チャンスの知らせが突然巡ってきたらいいのにと思う一方で、自分の芸人としての現在地は、まだチャンスと呼ぶ何かを待っているだけでしかなく、こうして駅のホームで仁王立ちしているだけの自分とほとんど変わらないと気付かされたような気がして、不快になった。

電車がやってくる音が聞こえる。急かされたような気がして不快感がさらに募るが、駅のホームの小さなベンチから腰を上げて、何かに願掛けをするようにエナジードリンクの残りを一気に飲み干し、稽古場へ向かった。



上京したのは十八の頃。夢だったお笑い芸人になってから十年が経とうとしている。最近では、ネタ番組やバラエティ番組にも出演する機会が少しずつ増えて、去年は念願の初単独ライブを開催することが出来た。

芸歴十年、長い道のりの中で何もかもを犠牲にしてきたが、少しずつ売れ出してきたことで、報われた気持ちになっている。

高校の同級生だったタカハシと相方を組み、「ダンク」というコンビを結成した。揉めることは多々あったが、こうして世に知られ始めてからは、お互い芸人を夢見ていたあの頃のように、漫才に必死になって毎日を過ごしている。

稽古場へ行く前に寄った事務所では、同期の芸人たちが私たちのマネージャーと話していた。事務所に入った私に気が付くと、遠くから声をかけたきた。

「ダンク、調子良いらしいじゃん。」
「俺たちの世代って結構調子良いよな。いや、お前ら調子良くないか。」
「やかましいわ。」

現在は、同期の芸人たちと出演番組の取り合いのような日々が続き、緊迫した期間を過ごしているが、自分たちは営業や賞レースで結果を出してきたし、あと少しで、自分たちが目指していた場所まで届くような、そんな気がしている。むしろ、解散していった同期のことを思うと、同期との関係は良好でありたいと思うほど、余裕のようなものすら感じていた。

当然、こうした余裕を感じているのは今だけで、ちゃんと恐怖が迫っていることも薄々感じている。自分たちより目立っていた同期や先輩をテレビで見る機会も減り、そのうち自分たちの仕事が減る番が来ることを理解している。

「また、来週の営業がダンクと一緒らしいよ。」
「マジで?でもお前らと一緒だとまた客の雰囲気悪くなるじゃん。」
「またってなんやねん。冷たいわー。」
「じゃあまた来週な。」

同期とのやりとりは、普段の会話から笑いが生まれる楽しさがある。自分たちを含めた同世代のどのコンビも、テレビに出て活躍することや、舞台に立ってより多くの人を笑わせることを夢見ていたが、私は、いつかこの世代の全員が中心にテレビで活躍することも、密かに夢見ていた。



ある日、読書家である私のことを知った雑誌の編集長が、私にコラムの連載の話を持ち出してきた。芸人になってから、与えられた仕事はなんでもやるというスタンスでやってきた。橋からのバンジージャンプ、先輩芸人にマジギレされるドッキリ、プロボクサーとスパーリングなどの過激な仕事はしたことがあったが、こんな仕事は縁がなかった。

なんでもやる、と言うよりお笑い以外に好きだったことが仕事になる珍しい機会だったので、すぐに了承の連絡をするようにマネージャーに伝えた。そして、次の打ち合わせまでに、好きなテーマでコラムを書いてきて欲しいと伝えられた。

家に帰り、すぐに作業に取り掛かった。興奮していると、時間の経過すらも忘れるほどのスピードで書くことができた。自分には才能があるようにすら感じた私は、無性に相方と話がしたかった。

知り合った高校時代から、聞き上手だった相方に何度も話を聞いてもらっていた。いつもは恥ずかしくて言えないが、相方である以前に親友であるので、今でも相談事をすることがある。

明日の営業は午後からだったので、相方に電話をかけることにした。午後から仕事の日の前日の相方は、必ず夜更かしする癖がある。その癖のおかげで、今まで大事な話や熱い話をする時は、夜中に話すことが多かった。夜の方が生きた心地がするのは、そのせいだろう。

日付も変わった夜中、携帯を取り出し、相方に電話をかけた。

「どうした?」
「こちらテレビ局の者なんですけども。体重が重すぎて高校時代に携帯を三個壊したことがあると聞いて取材させていただきたいのですけどご本人様ですか?」
「あー、ハイハイ。例の件ですね。本人ですよ。」

第一声は、心配したトーンで私の様子を伺ったように声を発した相方は、いきなりボケを入れ込んだ私に対してすぐに乗っかってきた。私たちコンビのどうでもいい会話は、おおよそこんな感じで始まる。

これは、私たちのお笑いの原点でもあった。高校時代から、自分たちにしか理解できないような自分たちの為のお笑いが、今のコンビを作った。

こうして初心に帰ると、安堵感で心地が良い。

「俺、コラムの仕事もらってさ、文章書く仕事を始めた。」
「なんか現代の芸人って感じだな。順調なん?」
「今、覚醒してる。」
「いいじゃん。」

相方はいつも私を肯定してくれる。私が肯定欲求者になったのも、このせいだろう。何か壁にぶつかった時は、肯定されることを求める。さらに、相方に肯定を求めるのが、最短距離で状況を解決する手段でもあった。

「明日の営業、大丈夫か?」

明日の営業のネタはもう既に決まっていたが、相方がこんなことを聞いてくる珍しい展開に、相方は私に対して、芸人という職業を全うして欲しいという思いが心のどこかにあるのだろうと悟った。

「大丈夫だよ。分かってるって。」
「だよな。とりあえず明日、現地で。」
「おう。」

相方を心配させたくないという気持ちから、出来るだけ強めのトーンで返答した。正直なところ、もう少しだけコラムの話をしたかったが、「分かってる」と言った後には、そんな話はできなかった。

思ったよりも早く電話が終わったので、もう少しだけコラムを修正してから寝ることにした。この時、私はコラムのことしか考えてなかった。

「はじめまして。ダンクのニシムラと申します。コラムの感想を聞いてもよろしいですか?」

二週間後、打ち合わせでは、事前に私のコラムを読んだ編集長から「良い出来だった」という評価と共に、来月から二週間に一回のコラム連載が決まった。コラムの評価として良い評価を貰えたことは素直に嬉しかったが、この二週間、文章を書く仕事という初めての仕事を受けるということに少なからずプレッシャーを感じていた。

今までの仕事は、「お笑い」という土俵で戦っていたので、誰よりも面白くありたいという闘争心や、今までの下積みから自信があった。

バンジージャンプだって泣きながらリタイアする相方を横目にハーネスを付けた五秒後に飛んでスタジオを爆笑させたし、先輩芸人にマジギレされるドッキリだって怖すぎて序盤で大泣きしてしまったが、仕掛け人だった先輩を逆に笑わせてしまったことがキッカケで今でも仲良くしてもらっているし、プロボクサーとのスパーリングも、ボコボコにされながらも自分でも信じられないほど粘り続けて熱戦を演じ、番組を大いに沸かせてきた。

しかし、今回は畑違いな仕事である上に、相手は私の読書家という一面を知った上でオファーしてきたことに、若干のハードルを感じていた。

「僕で大丈夫ですかね?確かに本は好きですけど、文章とか書いたことないですよ。アホですし。」

あえて自分からその不安を解消するために、自虐的に聞いてみた。自分のプライドを他人に傷つけられるくらいなら、自分で傷つけた方が痛くはない。私にとって自虐はプライドを守る術なのだ。

「君、最近テレビにも出て、ノッてるじゃん。大丈夫だよ。」

返事とも取れない曖昧な返事に一瞬戸惑ったが、とにかくいつもと同じスタンスで、仕事を受けてみることにした。

その日の帰りは、久しぶりに本屋に寄った。その本屋は、上京したての頃の行きつけで、現代的で、一見は本屋というよりカフェとしての一面が強く、そこにいる自分に酔いしれるように通い始めてからは、すっかり虜になっていた。

店内ではワンオーダー制で、ドリンクを一杯頼むことになっていたが、頻繁に行けるほど手頃な価格ではなかったので、週に二,三回しか行けなかった。

今までは、ネタを書く為か、読書をする為にしか来たことが無かったが、まさか、コラムを書きにここにくるとは思わなかった。

コーヒーを飲みながらパソコンを広げ、コラムを書く。ここにいると、これが自分に似合っているのではないかと錯覚するほど自分に酔うことができた。

しかし、いざ本棚の前に立つと、いつも読んでいる小説ではなく、コラムを手に取るのは難しかった。小説は好んで手に取っていたが、コラムを読んだことはあまり無かったのだ。

私が好んで本を読み出したのは十三の頃だった。父の書斎の壁一面に並ぶ本棚に、父のヘソクリがあると聞いた私は、見つけ出していくらか貰ってやろうと、全ての本の隙間を探し回った。ただ本を開き、ただ本をめくっていただけなのに、いつの間にか文字を読むようになっていた。その後、「本で見たことがある」という理由で、漢字テストで満点を取り続けたことを先生に褒められてから、上機嫌になって本を読むようになった。本の内容を理解し始めたのは、それから二,三年後のことだった。
この頃に一度だけ、父と本の話をしたことがある。

「お父さんはなんでそんなに本を読んでるの?」
「本っていうのはな、持っていれば偉そうに見えるんだよ。」
「確かにお父さんは、偉そうに見えるかも。」
「だろ?お前も、もう少し歳を取ったら、本に頼りたくなるんじゃねえかな。」

私は、父が真面目に答えてくれると思って質問したが、父はいつも通りふざけて返答した。父のようになりたいと願ったことはないが、友人からよく言われる私の印象は、ほとんど私が父に対して持つ印象と似たようなものだった。

父が言った言葉は、私が本を使って偉そうに見せたい時のことを想って言った言葉か、歳を取れば本当の良さがわかるという意味で言ったのかは定かではないが、歳を取る度に部屋の本が多くなっていった事は間違いではなかった。

そんな曖昧な出来事のせいで、本は好きだが、好きになったキッカケを聞かれると、時々戸惑うことがあった。芸人としてのエピソードトークでは、面白いと思ってそのまま話したが、それ以外の場では、読書家に対する冒涜に値するのではないかと思い、そのまま理由を話すことが怖かった。

大人になった今、本がなぜ好きかと問われたら、父の本棚にあった有名な本の名前を挙げ、その本から影響を受けたと嘘をついている。何かを好きになるキッカケなんて、そんなものだと信じていた。誰かから都合が良い理由を聞いた時に、別の理由があると疑ってしまうのは、初めから何かを好きで生まれてくる人間などいないと信じていたからかもしれない。

芸人を目指すと決めた十八になるまでは、私は小説家になりたいと考えていた時期もあった。口に出すことは無かったが、文字を書く仕事に憧れていた時期が確かにあった。コラムの連載なんて、十八の頃の自分が聞いたら夢が叶ったとすら思ってしまうだろう。

私はコラムを書き始めてすぐに、この仕事が好きだと気付いた。さらに、コラムが読まれるようになってからも、時々良い評判を耳にするようになっていた。自分には文章を書く才能があって、ようやくその才能にスポットが当たったのだと思っていた。
勘違いとも言えるこの自信は、私を良い方向へと導いた。文字を書いている間は、まるで、芸人になる前に自分が初めから持っていたものを肯定されているような気分だった。「過信」という文字を「自信」という文字に書き換えただけで、こんなにも勘違いができるのは、才能と言わざるを得なかった。

こうした些細な強みだけで勘違いをして、自信をつけて、それを誰かに指摘されない限りは、酔ったように自信家であり続けられる。本当に自信家である必要はないから、些細な強みだけでもどこからか降ってこないだろうか。

その後、コラムの連載が始まってから、我々コンビの名前が少しずつ知れ渡るようになっていき、仕事も増え、ピンでの活動も少しずつだが増えていった。コラムの影響だけでここまで来たとは思わないが、私を自信家にさせたこの仕事には、毎回感謝していた。

ある日の夜、私は自宅でコラムを書いていた時に、相方から電話がかかってきた。

「なに?」
「すいません。税務署の者なんですけども。」
「相方が何かしましたか?」
「相方さんの所得の隠蔽が…、ってオイ。俺かい。」
「俺の方が所得多いので俺に用ですか?」

「いや、そのボケは言い返せねえわ。なんてこと言うんだ。」

「現実は折半だもんな。」

相変わらずの電話で、安心して話していた。このまま、前回は言いそびれたコラムの話でも始めようと思った。しかし、相方はオーディションの本数を増やす為に、事務所に直談判しに行こうという話を始めた。

「今後の俺らの為でもあるし、少しだけでも調子の上がった今、もっとやれると思う。ネタを書いているお前に俺から言うのは悪いけど、もっとネタの数増やさない?」

相方の言うことや、その意図には全く反対できなかった。むしろ賛成だった。芸人としては、少しでも名前が知れ渡った今この瞬間がチャンスであることを分かっていた。コラムを書くことをやめてでも、ネタを書く時間を増やして、チャンスに飛びつくべきであることは分かっていた。

「今、コラムが良い調子なんだよ。多分、もっと伸びるぜ。」

「まあ、それならありがたいけどな。」

まるで話を聞いていなかったかのような返答になってしまった。まるでコラムを優先するかのような発言をしてしまったことを後悔した。この時、芸人としてのチャンスに対するリスクに怯えて、コラムに逃げている自分に気がついた。

「とりあえず明日ネタ合わせできる?お前んち行くわ。」

「午後からならいいよ。」

芸人の仕事に対する意欲を相方に見せつけるかのように、ネタ合わせの予定を急遽入れた。中途半端にコラムを書き終え、途中だったネタ作りに取り組んだ。

気付けば夏の暑さは何処かへ行った十一月のある日。連載が開始してから三ヶ月が経ったが、今回の打ち合わせが少し長引いた。理由は、コラムの題材を「お笑い」に変えて欲しいと言われたことがキッカケだった。

いつも書いていたコラムは、流行の音楽について、ネット文化について、メンタルヘルスについてなど、日頃から興味があることを書きたいように書いていた。それなりに評価は良かったものの、担当の編集者は私がテレビに出演する機会が多くなったことを理由に、書く内容も変えれば読者がもっと増えると訴えた。

「やっぱり、ダンクが最近世に認知され始めているように、もっと現代のニーズに合わせた方が良いと思うんですよね。なんていうかこう、もっとわかりやすくして欲しいんですよね。」
「ニーズですか?」
「お笑いの時と同じようにやれば、きっとうまくいくと思いますよ。現にダンクは現代のニーズに合ったお笑いしてるじゃないですか。」

本当は編集長の意見も聞きたかったし、担当の編集者の意見は抽象的で、お笑いとコラムを同列に語る口調にも腹が立ったが、最近のコラムの満足度は自分でも高くなかったので、とにかく自分の実力不足であることを認めることにした。

コラムの連載が決まった時の編集長のセリフにも「テレビに出ているから」という言葉が含まれていたことを思い出すと、自分が要求されているものが最初から存在していたことに気付いた。この要求に対して悩んでいる自分が間違っているように感じられ、素直に内容を変えることにした。

ただ、その変更を認めるまでに時間がかかった。少なくとも自分のペースでコラムを書けなくなっていた。

まるで宿題を急かされる幼少の頃のようだった。偉そうに物事の価値を見出そうとして、価値を見出すことに時間がかかって、物事に取り組もうともしない。こういう嫌なことだけは大人になっても取り除けない。

思い返すと、否定をされると途端に孤独を感じる性格だった。

ハタチになった頃も、周りの大人に否定されるとすぐ内向的になっていたし、同級生と違うことをしている自分に対して自ら否定的になるような情けない性格だった。

この日の自分は情けなく見えたので、いつもの本屋に寄り、今まで頼んだことのない高いコーヒーを飲んで、何もせずにただくつろいでから帰った。

この日の夜は、無性に相方の意見が聞きたくなった。いや、肯定を求めたと言った方が正しいだろう。

そして、夜が更ける前のいつもより早い時間に相方へ電話をかけた。

「どうした?」
相方は、いつもの口調で電話に出た。
「実はさ、コラムがあまりうまく行ってないんだよね。」

いつものような会話は無く、いきなり本題を話した。
「俺にコラムを書いて欲しいってこと?」
「いや、そうじゃなくて。」

相方が気遣ってボケてくれたのに、この日は言い返す余裕はなかった。自分が芸人であることすらも忘れていたのかもしれない。

「どうしたんだよ。そんなに悩んでんの?」
「まあ、コラム書く才能がないらしいわ、俺。」
「いや、なにで悩んでんだよ。」

相方がちょうど良いテンポで返答したので、ツッコミのような返答になったが、これは相方が示した本音だろう。本来悩むべきことで悩まずに、何に対して悩んでいるんだというメッセージがあったことに気付いた。

「確かにな。」
「まあ、でもさ、自由にやれよ。いろんなことで悩めるんだからさ、芸人であることを誇りに思えよ。」

意図して抽象的な言い方をしたのか分からないが、今日の編集者に言われたことを思い出した。同じ抽象的な指摘だが、その言葉に含まれた意味が圧倒的に違った。

この日は、相方のおかげで最低な一日にならずに済んだ。

明日からはきっと新しい自分に生まれ変わって、この状況もどうにかなるだろうという淡い期待だけが、心の奥底に残った。
年も明け、コラムの内容を指摘された日から三ヶ月が経った。年末年始のネタ番組ではいつの間にか若手芸人が出演し始め、私たちは以前のような結果が出ることはなくなっていた。

あれから、コラムも低迷が続き、つられるようにして芸人の仕事も減っていった。同期や後輩の芸人には、「そろそろダンクも潮時がきた」と囁かれるようになった。励ましてくれる人は、ダンクを評価してくれた数少ない事務所の先輩や相方だけになっていた。

「お前ら、最近どうしたん?」
「いや、あんまり調子良く無くて。」
「俺らも若い時はそんな感じやったわ。貰える仕事もお笑いとは関係ないもんも多くてな、しんどかったわ。今のお前ら見てると、当時思い出して泣いてまうわ。今までありがとうな。」
「いや、やめませんよ。最後の別れみたいになってますよ。」
「まあ、あとで飲みに行こうや。送別会開くわ。」
「いや、だからやめませんて。」

こうして気遣ってくれる先輩と会話している時が、自分が芸人としてこの世界に存在していることを肯定されているような感覚がして好きだった。

ガムシャラにネタをやっていた時に、初めて声をかけてくれた先輩や、オーディションで辛口ながらも評価してくれた作家の方に、低調な自分たちを気遣ってもらった時には、泣きそうになった。

十代に最も支持されているバンドが歌う「大切なものはすぐそばにある」というありきたりな歌詞に、もうすぐ三十になるが、恥ずかしげも無く共感していた。

そうして、今更になって新しいネタを書き始めた。

しかし、同時にコラムの仕事を受けることが難しくなっていき、コラムの連載は終了した。そして、ネタ作りも思ったようには行かず、芸人一本に絞った今も、低調な日々は続いた。

相方との電話は変わらない頻度でしていたが、内容は話が弾むようなものではなかった。

「悪い。コラム終わっちった。」
「いや、俺はずっとネタが不足していることを心配しているから、もう気にしなくて良いよ。」
「ネタもさ、思ったより上手く行ってない。」
「まあ、昔に戻ったと思ってやっていこう。てか、俺はそうしたい。」

相方が提案してくる時は、いつも物腰低い口調だったが、この時はハッキリと意志を感じた。

それから、徐々に仕事が減っていった。こうなることを理解していたはずなのに、心の奥で慌てる自分に「大丈夫、大丈夫」と必死に言い聞かせていた。この時にはもうすでに自信なんてものはなかった。

何に怯えているのか分からなかったが、逃げるようにいつもの本屋へと駆け込んだ。そして、カウンターへ向かった。

「ご注文は?」
「ブラックコーヒーで。」
「最近飲まれていたものは、飲まないんですか?」
「いや、今日はこっちの気分だったので。」
「あの、いつもコラム見てますよ。」
「ありがとうございます。でも、」
「?」
「いや、なんでもないです。ありがとうございます。」

顔を覚えられていたのは知らなかったし、声をかけられるにしても最悪なタイミングだった。コラムの話が出た瞬間、思わず見知らぬ人にコラムの連載が終わってしまったことに対する悩みまで話してしまいそうになったので、連載が終了したことすら話すことができなかった。

コーヒーを受け取った時、自分でもひどく赤面していることが分かったので、一番奥の席へと座った。

その恥ずかしさが、芸人として低迷している今の自分の置かれている状況が、恥ずかしいものであるかのように増幅して感じさせた。自分で居心地を悪くさせてしまったが、急に声をかけてきた店員のせいにするように、すぐにコーヒーを飲み干し、店を出た。

家に帰ってからも、落ち着かなかった。

自分の価値はなんだったのだろうか。自信を持って書いていたコラムも、私の持つ考え方や、私を選んだ理由とされていた読書家という一面に誰かが興味を持ったわけでは無く、「芸人としてテレビに出ている人が書くコラム」に価値があったのだろう。そして、芸人としての価値すらも薄れている自分に、一体何の価値があるというのだ。

若い頃に夢見ていた文章を書く仕事とは、主とした何かに付随したものではなく、紛れもなくその人から生まれた文字や文章に価値があって初めて仕事となるもので、私の書く文章はそれに該当していると思っていた。

しかし、私の書く文章は「芸人が書く何か」でしかなかったのだ。私の文章に、独立した価値はなかったのだ。

当時見ていた夢がこんな簡単に叶うはずない。誰もいないマンションの自室で、わざとらしく笑ったりしながら自分に言い聞かせてみるが、芸人という仕事にも自信を持てない今、自分でその無力さを認めるのは、あまりにも残酷だった。

ただ、考えてみれば、芸人という仕事が自分の価値だと思うことすら傲慢だったのかもしれない。人生はこれの繰り返しなのだ。小説家としての自分の文章に価値はなかった事が分かったが、そもそも、自分の芸に独立した価値など最初からない。芸人だって小説家だって、全ては「人生に付随する何か」でしかないのだ。

仕事が自分の価値を決めるなんて、そんな簡単でつまらない世の中で良いわけがない。そう思えば何もかも崩れていく今のこの現状にも納得が出来た。自分の価値なんてものを考えると、価値が低い時に限って自分の価値が決まってしまったように感じる。本当に価値が決まるとしたら、その時は人生が終わる時だろう。

もうすぐ誕生日を迎える相方に、一通のメールを送った。

「今までごめん。これから頑張るわ。」

相方からのメールは相変わらずだった。

「早く俺んち来い。ネタ合わせした過ぎてバイトサボったわ。」

いつの間にか冬も明けて、春になっていた。人の心は、勝手に変わっていく季節のように変化していく。何かに願掛けをするようにエナジードリンクを飲んで、地方の営業へ向かうために電車に乗った。

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