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イメージなんてそんなもの、だけどそれが世界をつくってる

「最近、どこもかしこも「推し推し」ばっか。なにこれ流行ってるの?」

なんだか、そう口走ってしまう。かわいくないな、言い方が。
巷で必要以上に使われる単語って、自分の中にある一定の領域に達すると、とたんに、なんというのかな…独特のにおいがするようになる。

だからといって「推し」ってことばが悪いわけではない。
あくまで、そこに乗っかるバイブスというのか、そこをとりまく感覚が妙に引っかかってしまうところがあるのです。

ちょうどいい例があった。先日ライターの友人が開運特集の仕事で訪れた某神社を「邪念がすごくて、疲れた」って言ってたのだけど、その神社はこじんまりとしていてそこまで有名ではなかった(はず)。だけど、あるタイミングから注目が集まって(よくあるパターン)今では人が並んでいた(写真でしか私は確認していない)。ちなみに回転は早かったらしい(すべて友人からの受け売り)。つまり何が言いたいか、さっきの「推し」って言葉も、今の例に出した「某神社」も、それ自体は何も変わっていない(当たり前)。ただわたしが勝手にその言葉から連想するイメージが変わったってだけ。

ここで重要なのは、わたしにとってのイメージなんて、わたしの中だけの話であるはずのことなの、大前提として。わたしの見ているもの、感じていることは、一緒に生活している相手ですら、全く同じものを見ているわけでも、感じているわけでもない(もちろん、同じこともたくさんあるけど)。つまり、さっきの冒頭の発言を聞かされた相手にとっても、勝手に聞かされただけで、何も関係ない。と言えたらいいんだけど、そこがさ、世の中の難しいところなんだよ。

わたしが「聞かされた側」だった神社の話のほうがわかりやすいから、まずはこっちを例に挙げてみるね。わたしは、この某神社をもともと知っていて、そのきっかけは、おそらく先日友人が送ってくれた写真に写った並んでいる人々と同じなんじゃないかと思います(あくまで推測だけど)。つまり、それくらい「バズる」きっかけがあったのをわたしは知っていた。で、このパターンの俗にいう「パワースポット」がどんな感じになるか(あくまで私の感覚として)過去のアーカイブがあるから、先日の友人からの話も、特に色眼鏡なく(ここでいう色眼鏡とは、某神社自体が変わってしまったと勘違いすること)話を受け止められた。

じゃあ、最初の「推し」の話はどうだろう。わたしのイメージを勝手に聞かされた相手は、特に「推し」という言葉にフォーカスもしていなかった真っ新なキャンパス状態。わたしの話に「へぇー」とかなんとか、適度な相槌を打ちつつ右から左に流れるように聞いてくれる(何ら変わらないいつもの日常)。まぁ、常に私のこういう話に付き合わされているから、今回に関しては大丈夫だとは思うけど、これさ、例えばわたしがすっごく影響力の強い立場で話したりしちゃったら、どう思う?私の世界のイメージが、そっくりそのまま、自分の世界に入り込んで、なんなら知らないうちに「自分もそう思ってた」なんてことになったりしない?ちなみに、私は結構こういうことあります。だからここで吐き出してる、忘れないように。

最近読んだ本で「世界は関係でできている」って話があるんだけど、むしろ極端な話それしかない、とすら言えちゃうんじゃないかなって、こういう時身に染みるんだよね。

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と、ちょっとストーリー仕立てに、軽い文章で書き散らかしてみたんだけど、やってみて思った。作家さんはすごいね…全然物語になってないわ。物語にはなってないけど、これくらいの感覚だったら、文章書くのが楽しく感じられるから、当分はこの感じでやっていこう。
エッセイっぽくあるけど、半分フィクションです。このグレーな感じが、今の私には一番心地いい。嘘も本当もあってない感じ。いまの空気感にぴったりハマる。

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