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もの見る解像度を上げるのに知識は必要か

冬に防寒のため羽を膨らませているスズメのことを、「ふくらすずめ」というらしい。ぷわぷわに膨らんだスズメに、こんなかわいらしい名前があったのか、と枝にまんまるな体をちょんと乗せているのを見るたびに「おぉ、ふくらすずめ、ふくらすずめ。」と訳もなく心の中で唱えては嬉しくなる。

ここ数年、草花の名前を知るのが楽しい。詳しいわけではないので知らない花を見かけるとスマホでちょっと調べたりすることもある。「これは山茶花、あっちは牡丹、これは千両?それとも万両?」あいさつできる草花が増えると、季節の移り変わりに敏感になれた気がして少し気分が良い。

名前を知ることによって、今までボンヤリと見ていた景色の輪郭がクッキリとして、解像度が少し高くなったような感がある。

書を見る場合はどうだろう。
数ある「古典」と呼ばれる名品にはそれぞれ「○○碑」だの「○○帖」だの「○○切」だの様々名前が付いている。それらの名前をたくさん知っていることは、書の本質を理解する上で重要なことだろうか。
これは私の先生の受け売りなのだけれど、答えは否だ。

美術館や博物館に行くと、作品をちらっと見たら後はキャプションばかり一生懸命に読んでいる人が意外と多い。キャプションの説明書きは、その書が立派なもので多くの人に愛されていた証ではあるけれども、知識を増やすことは作品の本当の良さを見抜くには帰って邪魔なのだ、というのが先生の持論。自分にも思い当たる節があった。

大学生の頃、書道専攻で学んでいた私は、「ホンモノ」を見るため度々博物館や美術館に出掛けて行った。
けれども思い返せばその時は、その作品の世間的な価値にとらわれ、自分の審美眼を磨いたり、あるいは試したりしていなかったように思う。「そうそうこれこれ、本で見たやつ!」と、テキストで見た「名品」の答え合せをしに行っていただけだったかもしれない。
遥か昔、誰かが心を込めて紙に乗せていったその線を「自分の目」で見ていなかったのだ。

そのことを教わってから、博物館や美術館での滞在時間がグンと減った。キャプションを精読していた頃に比べると1/2以下の時間になったと思う。

もの見る解像度を上げたい時、時として知識は足枷にもなりうる。

名前を知る事、つまり知識を増やすことは楽しいし、体系的に学ぶ時には欠かせないものだ。これからも知識面を充実させる勉強もしていきたいと思うが、それが書を見るときの余計なフィルターにならないように気をつけたいと思う。

#書道 #美術 #鑑賞 #美術館

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