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保育セミナー「初心連続講座2024」に寄せて02~初心は苦(にが)い?

2024年5月から順次開催される、保育セミナー「初心連続講座2024」。
それに寄せて書いています。

初心者じゃない人の方が初心を探す必要あるよね、そうなると

初心の辞書的な意味では、未熟な、手慣れていない状態や人を指します。
「初心者」という用語ですね。

一方、仏教用語では
「初めて悟り求める心を欲すること。またその人」とあります。
だからこそ「初心」は、物事が進展、変化していったときに立ち戻れる地点や状態ともとれます。
「初心を忘れないでね」とか言われる時の意味合いです。

そうなると、いくらか年数が経って積み重ねてきた人たちにこそ、この初心は大事になってきます。

この辺りはすでに以前のnoteで書いたので、割愛しますが、補足的に一つだけ。

稽古は何を目指すのか。舞台(試合・パフォーマンス)が「成功する」と喝采を浴び、注目され、社会的評価を受ける。そして次の依頼が来る。それは稽古する者にとって喜びであり励ましである。  ところが、そうした成功とは別の「納得」がある。世阿弥は「落居」という。「然るべき過程を踏んだ後に、落ち着くべきところに落ち着いた」とでも理解するしかない、ある種の満足・納得である。
(西平直『稽古の思想』)

これを引用したのは、初心を私が「何から引き剥がしたいか」をまず語りたいからです。

初心は、感動のための感動ではない。童心主義でも、判断停止でもない

初心とは、初々しい心なわけだから、保育においては初めて保育をしたときの心境だったり、子どもという存在に出会ったときの驚きだったり。

それは確かにそう。
ただ、昨今の保育業界では、ここから一足とびに、童心主義的な子どもへのイメージや感動に結びつけられてしまう気がしています。

感動的なエピソードや、写真に結び付けられてしまう(それだけではなく、それが自然観や社会、文明批判に飛ぶのはもう、なんといったらいいのだろうか)。

そして感動することで、判断を停止しているように思えます。
感情に溺れて、面倒くさい実践の積み重ねから逃げているように思える。

初心は、そういうような怠惰な感動とは違います。
それは、はじめから終わりまで、実践の積み重ねと、試行錯誤の中にしかありえないのです。

それは先に引用した文章の中にある通り、「納得」というものは身体を伴う行為とその振り返り(これは単に認知的な省察ということだけではなく、言語や身体の調整を伴うもの)の果てにしかあらわれないだろうから。

初心はあくまでも臨床の中の、実践的行為にしかない

私は「初心」を保育の実際の中に置きたいのです。
子どもって〜だよねぇ、というような大掴みのプレゼンテーションに身を任せて判断停止してしまうような、怠惰な感動からは距離をとっておきたいのです。

苦(にが)いでしょうか。
そう、実践というのはときにとても苦(にが)い味がするものです。

初心は保育においての「わざ」「スキル」「技術」というものと結びつけて考えうるし、またそれをどのように継承していくのか、ということとも、合わせて考えていけざるをえなくなります。

それは地道で、地味で、瑣末なことのように思えます。
どんな声で子どもに呼びかけるとか、腰の位置とか、身体の開き方とか。
これは以前に「保育の基本とは何か」で書いたことと通じます。

保育の初心連続講座2024 5月から順次開催です!

保育の初心(しょしん)を問い、確かめる連続講座です。
講師には、溝口義朗さん、岩田恵子さん、そして柴田愛子さん。

個人での講座ごとの単発参加、通し参加、団体参加、いずれも可能です。
詳細、お申し込みはこちら!


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