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対話できるそのこと自体が、

得がたく、ありがたい。

歪んだ認知を振りかざす、とても見識があるとは思えないマジョリティを訝しがるポジションでいるふりをして外側から笑われるような人間かもしれない、と考えることがよくある。
これはどうしようもなく不健全だ。いつまでも考えが落ちてこない。
そもそも他者と対話のステージに立つこと自体が難しいことを理解する必要がある。前提として、互いに速度を合わせ、自分が対象物をどこまで理解していると考えているのか、そして互いのすべてを理解し得ないことを知っておく必要がある。

そこまでする時間と価値があるのか。また、なんの意味がなくともその過程を愛せるのか。

手を尽くしても納得のいく結論に辿り着けないことは往々にしてある。堂々巡りをして悦に入っているのか、そういうのは嫌だからどうにかできないだろうか、どう伝えたら違和感を解消できるのか。
そして、己の中でこれ以上は無理だと固め、前のめりになったあかつきには対話から口論になっていく。
軸がずれる。
それをしたくて始めた対話ではない。対話の後に議論になるのは良い。互いの知見を持ち合わせ、積み上がったその先は集合知になり得るものだ。
しかし、おおよそ、多くの出来事はここまで進められない。そして軸がなくなっていく。

これらは自分のことしか考えていないとすら言えない。気付かないうちに入れられた小さなコロニーを蹴っ飛ばしながら、暗黙の了解みたいな教えられていないルールにぶつかって、いつも怒っている。
作り笑いすら出来ないままで悲しくもなるけど、飲み込めないなら仕方がないのか。
取り立てて何もない日しか周りには転がっておらず、降りかかってくる棘がほとんどなくなったら、ここで書くことはなくなるのかもしれない。
そして、悲観することもないのかもしれない。忘却と消失は同義じゃない。

私は些細な日常でこのような思考を巡らせている。
皆々どこまで考えている?言語化はしなくとも、もちろん考えることを強要しているわけではない。ただ、持論を他者にどこまで担わせているのか、担わせたいのかを常に計りかねている。
こんなんいちいちすべてを言っていたらうるさいよ。


婉曲に表すことで元の感情を捻じ曲げている。説明過多、もしくは美化と言い換えてもいいかもしれない。
何も起こらない毎日は何もないからこそ幸せなんだろうが、嘘みたいに起こり得ない。嘘をつけないから尚更だ。
自分で生んだ軋轢は自分にぶつかってくる。嘘をつきたくないから我関せず、近寄らずに離れたい。私だって長いものに巻かれたい。
巻かれないからこうなっている。


いつか誰かのゴミ捨て場になるのか?
そしたら殴る。少なくとも今の最適解がそれである。

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