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おもひでぽろぽろ 思い出と向き合う

高畑勲が監督した「おもひでぽろぽろ」は、アニメ作品にありがちなファンタジー的な要素がなく、特別な主人公の特別な冒険物語とは正反対の作品。

主人公タエ子は27歳。独身で、東京の会社に勤めている。
物語は、田舎に憧れている彼女が10日間の休暇を取り、農業体験をするために山形の親戚の家に行くところから始まる。
田舎に行くと決めた時から、突然、小学校5年生の思い出がポロポロとこぼれ落ちるように蘇り、彼女の心を一杯にする。

山形では、親戚の家族に混ざって紅花を摘む作業を手伝ったり、有機農業に取り組むトシオに有機農業の手ほどきを受けたり、蔵王にドライブにいったりする。東京に戻る前の日、親戚のおばあさんからトシオの嫁になってくれと突然言われ困惑する。しかし、結局、そのまま東京に戻る電車に乗る。
しかし、電車の中で突然考えを変え、次の駅で電車を降る。そして、トシオが迎えに来た車に乗り、親戚の家に戻る道を辿る。

特別なことが何もなく、ただ一人の女性が田舎で農業体験をし、一人の男性と仲よくなるという物語。

エンディング

タエ子は27才になり、独身女性に対する結婚へのプレッシャーを感じて、人生の転機を感じると捉えられる可能性がある。
東京での平凡な日常に少しうんざりしているOLが、田舎で人の良さそうな男の人と出会い、結婚する。
こうした見方をすると、小津安二郎監督の映画のように、とにかく独身の娘を結婚させるという親や社会の圧力を自分の中に内在化させた女性の物語と考えられてしまうかもしれない。

結婚に関しては、農家の嫁不足という現象に言及し、実は、山形の親戚たちがタエ子の田舎好きを利用して、初めからトシオの嫁にと考えて、彼女を呼び寄せた等と考えることさえ可能になる。

別の見方は、都会と田舎の関係
タエ子は出発前に、「田舎に憧れている」と言う。そして、山形でも、本当の田舎はいいとか、みんな親切とかいい続け、都会人が頭で考える田舎のイメージを持ち続けているように見られる。それは、都会人の優越感の裏返しと受け取られる可能性がある。
「おもひでぽろぽろ」の映画の制作プロデューサーをした宮崎駿監督は、その視点に立ち、この結末では、「百姓の嫁になれ。」というメッセージになってしまう、と言う。そして、こう続ける。「もう等身大のキャラクターで作るっていうことに対して、色々な功罪も含めて、極まったって感じがしましたね。」

実は、高畑監督は、タエ子は電車で東京に戻り、山形に後戻りしないエンディングを考えたいたという。
それでは物足りないと考えたプロデューサーの鈴木敏夫が、宮崎駿に、「タエ子は山形に戻るでしょうか?」と尋ねると、宮崎の返事は、「絶対に帰ってこない。」
その言葉を高畑に伝えると、高畑はラストシーンについて考え直し、最終的には、電車の中に子ども達が姿を現し、彼女を田舎に連れて行くというものにしたという。

ただし、この結末ではどうしても、タエ子がトシオとの結婚し、山形の田舎に住む決心をしたものと受け取られる。そして、「おもひでぽろぽろ」を、結婚や田舎願望という紋切り型の物語の中に押し込めてしまう危険が出てくる。

映画の公開後にそうした反応に多く接した高畑勲監督は、あるインタヴューの中で、それは違うと答えている。「タエ子は、あと一日か二日、男性としてのトシオと付き合いたい。」だから、電車を降り、親戚の家に戻ることにしたのだと。

しかし、それは監督の言い訳のように聞こえる。
タエ子は空想の中で、干し草の上でトシオと寝転ぶ姿を想像している。

最後にトシオと合流した時には、思い出の中の子どもたちが相合い傘を掲げている。
こうした映像は、明らかに、二人の結婚、そして田舎暮らしを、観客に印象付ける。

このエンディングに対して、好意的な意見もある。
スペインの映画監督イグナシオ・フェレーラスは、映画の最後にエンド・クレジットが流れ、主題歌「花は愛、君はその種子」が聞こる中で展開するラストシーンを絶賛する。

その理由は、タエ子の過去と現在が、「非常に効果的かつ大変シンプルな形で一つに結実している点」にある。
もし東京にそのまま戻ってしまえば、「これ以上を人生に求めてはいけない」という一種の絶望感を抱いたままで終わってしまう。普通、観客は、映画のエンド・クレジットを見て、もう映画は終わったものと思う。
その時、10才のタエ子が電車の中にポッと現れ映画のルーティーンが崩される。観客は、映画が終わらないどころか、舞台裏を垣間見ているような気持ちになり、物語の続きをエンド・クレジットが続く限り見ていられると思う。

スペインの映画監督は、この終わり方に、高畑監督あるいは鈴木プロデューサーの意図したラストシーンの意味を読み取ったのだろう。
それは、小学校5年生のタエ子が27才のタエ子を解放してあげる、というもの。

高畑監督も、別のところで、この場面の中心になるのが、「花は愛、君はその種子」の歌詞の2番であることを明かしている。
主題歌は、1979年に公開された映画”The Rose”のテーマソング。歌うのは、ベット・ミドラー。
高畑監督自身が歌詞を日本語に訳している。

2番の歌詞。
It’s the heart, afraid of breaking
That never learns to dance
It’s the dream, afraid of waking
That never takes the chance
It’s the one who won’t be taken
Who cannot seem to give
And the soul, afraid of dying
That never learns to live

高畑監督の訳詞。
挫けるのを 恐れて
踊らない きみのこころ
醒めるのを 恐れて
チャンスを逃す きみの夢
奪われるのが 厭さに
与えない こころ
死ぬのを 恐れて
生きることが 出来ない

高畑監督が描こうとしたのは、小学生5年生の時も、27才になってからも、心のどこかに躊躇いを持ち思い切って一歩を踏み出すことができずにいる人間の姿だということを、この歌詞から察することができる。

エンディングは、躊躇いを振り切り、一歩だけかもしれないが、とにかく前に歩み出したタエ子の姿を描いている。

思い出と向き合う

「おもひでぽろぽろ」は、小学校5年生の「思い出編」と27才の「山形編」で成り立っているが、二つの時代共に、非常にリアルな印象を与える作りになっている。

高畑監督は、作品を貫く基本的な姿勢として次のように語る。

ドラマとして完結した世界を作るのではなくて、主人公が思い出し、旅をし、人と触れ合うところに、見る人があたかも立ち会っているような錯覚を起こさせる(中略)。だから、タエ子が思い出したり見たり経験したりしたものだけを、できる限りその時間の通りに描いて、それ以外のものはほぼ描かない、という方針をほぼ貫いているんです。二,三の例外はありますが、脚本を作る上で、ぼくが気を遣ったのも「こういうことが現実にありうるかどうか」ということだけなんです。(中略)できるだけこちらは無色透明になって、見る人の前にタエ子の行状をポンと投げ出して時間いっぱいつきあってもらいたい、というのが意図だったわけで、こちらが直接メッセージを押しつけたり、主人公の感動的な生き方に共鳴してもらいたい、とかいうつもりはまったくなかった。

高畑監督が意図したことは、作者が物語の中に介入せず、登場人物たちが行動するままを描くこと。つまり、リアリズム小説と同じ手法を採用することだった。
従って、思い出にしても、山形旅行にしても、特別な出来事は何も起こらず、誰にでも起こりそうなことが、ごく普通に語られていく

そのリアルさをさらに強めるのは、背景としてちりばめられた同時代の出来事やテレビ番組や歌など。
「思い出編」は、昭和41年(1966)に設定され、当時を生きた人ならば誰もが知っている事柄が、テレビ番組の「ひょっこりひょうたん島」を始め、数多く出てくる。
「山形編」は、昭和57年(1982)。経済的な豊かさが増し、「おいしい生活」というキャッチコピーが一世を風靡した時代。こちらでも、当時流行したものや言葉がぎっしりと詰まり、当時をリアルに反映している。

では、なぜ27才のタエ子が、10才の自分を思い出すのか
その理由は、ナレーションではっきりと語られている。
小学校5年生の時、女の子たちは男の子とは別に集められ、先生から生理のことを教えられる。
そうした中で、タエ子も体育を休んだりするエピソードの中で、生理が始まったことが暗示される。
それは、青虫がサナギになり、蝶に生まれ変わって羽ばたく準備だった。

27才のタエ子は、普通に仕事をしながらも、何か充実しない生活をしているように感じている。そんな時に計画した10日間の田舎への旅は、もう一度サナギになり、羽ばたき直す機会かもしれない。そんな風に、心のどこかで感じている。
その気持ちが、小5の自分を思い出す理由に他ならない。

ここで注意しなければならないのは、思い出はノルタルジーのためにあるのではないということ。
小学校5年生のタエ子は、懐かしく思い出す存在ではなく、今のタエ子が誰なのか教えてくれる存在
ポロポロとこぼれ落ちてくる思い出を辿り、彼女は、心の奥に眠るエピソードに行き着くことになる。

今のタエ子は、会社でも、私生活でも、それなりにそつなくこなし、田舎に行っても、みんなから好かれている。無理にそうしなくても、いい人。

他方、小学校時代のタエ子は、家での顔と、学校での顔がまったく違っている。
家では、我が儘一杯
三人姉妹の末っ子で、とりわけすぐ上のお姉さんとはいつもけんかばかり。お父さんからは甘やかされ、高価なパイナップルを買ってもらうこともある。嫌いなたまねぎを食べずに、ずるしても叱られない。

しかし、あまりに我が儘が過ぎるときもある。お姉さんのエナメルのバックを欲しがり、あげると言われれば、いらないと言い返す。
家族で外出する時にも、お姉さんが来る来ないで揉め、結局、いつもは甘やかしてくれるお父さんからほっぺたをぶたれる。
理不尽な思いもする。算数、とりわけ分数のかけ算ができないからといって、お母さんやお姉さんたちから、どこかおかしい、小さい頃に頭を打ったからだ、などと陰で言われることもある。
小学校の学芸会の演技が認められて、大学生の劇に参加してほしいとお願いされた時、とても乗り気だったのに、お父さんから理由もなく駄目だと言われる。

しかし、学校でのタエ子は、良い子をしている

学級会でみんなが意見を活発にわかしているときも、静かにしている。給食当番や掃除当番もそつなくこなし、みんなと仲がよさそうに見える。とりわけ、隣のクラスの広田君からは、好きだと告白され、天にも昇る気持ちになることもあった。
給食で嫌いなものを残すことがあっても、こっそりとパンに包んだり、隣の男の子の嫌いなミルクを飲んであげ、自分の嫌いなものは食べてもらう約束をする。
家の中で我が儘一杯でいるタエ子とは思えない。

こうして見ると、27才のタエ子は、学校にいるときのタエ子そのままだということがわかってくる。
彼女は、無理をしているつもりはなくても、いつの間にかいい人をしている。
山形の親戚の女の子ナオ子は、タエ子から、小さな時には我が儘だったという話を打ち明けられ、今のタエ子からは想像ができないと言う。そのことからも、タエ子が他の人からどのように見られているのかわかる。

東京育ちのタエ子は、小さい時から田舎が欲しく、今は本心から田舎が好きだと思っている。休暇を利用して、田舎の人たちの農作業を張り切って手伝う。自然は美しく、人々はみんな親切で、大好き。その気持ちに噓はない。

しかし、そうした田舎好きは、本当の田舎の生活を知った上でのことではないと、どこかで感じているのだろう
親戚の本家のおばあさんから、トシオの嫁になってここに住んでくれと言われると、びっくりしてしまい、家を飛び出してしまう。その時に、自分の「浮ついた田舎好き」を自覚する。

浮ついた自分の姿に気づいたとき、それまで忘れていた思い出が甦る。それが、あべ君のエピソード
転校生のあべ君は貧しい家の子で、いつもぼろぼろの服を着て、行動が粗野で、言葉遣いも乱暴。クラスのみんなは、陰で悪口を言ったりしている。
学校ではいい子をしているタエ子は、たまたま隣の席になってしまい、厭だけれども態度に出すことはなく、陰口にも加わらなかった。
あべ君は、すぐに転校することになり、先生の発案で、クラス全員と握手して回る。最後に、席に戻り、タエ子と握手することになっていた。しかし、「お前とは握手してやんねえよ。」と言い、握手をしない。

タエ子は、心の中ではどんな風に思っていても、あべ君に厭な思いをさせないようにしてきた。それなのに、自分だけ握手を拒否される。
その理由がわからず、あるいは、本当の思いを見透かされていたのではないかと無意識のうちに思っていて、トラウマになっていたのだろう。
最後にこのエピソードが置かれ、それ以前の思い出は全て、無意識的に抑圧していたあべ君を導き出すための前提だったとも考えられる。

27才のタエ子は、小学校の時と何も変わってはいない。田舎が好きだと言っても、生活の場は東京。休暇で10日ほど田舎にいれば、満足できる程度。とても現実的な選択だけれど、それ以上のものではない。
小学生の時、夏休みになるとみんなが田舎に行くのに、東京育ちの彼女には田舎がなく、どこにも行けなかった。田舎が好きなのは、その時の淋しさを満足させるためなのだ。結局、それ以上には踏み込むことができない。
その姿は、「花は愛、君はその種子」の2番の歌詞そのまま
「挫けるのを恐れて、踊らない君の心。醒めるのを恐れて、チャンスを逃す君の夢。奪われるのが厭さに、与えない心。死ぬのを恐れて、生きることが出来ない。」

タエ子が最後に電車を降り、好きな田舎に戻る行動を取ったことは、小学校5年生のタエ子が、拒否するあべ君の手を自分から取り、握手をして別れるのと同じこと
それこそが、「小学校5年生のタエ子が27才のタエ子を解放してあげる」ことになる。
結婚するとか、田舎に住み続けるとかいう現実的なレベルではなく、映画として、彼女は踊り、夢を見て、心を与え、そして「生きる」ことを、映像として表現する。
思い出と向き合う意味はここにある過去の自分を振り返ることで、今の自分をはっきりと見据え、一歩を踏み出すこと。

このように考えると、「おもひでぽろぽろ」がノスタルジーの映画ではなく、今の自分の生き方を描いた映画であることがわかってくる。

トシオの役割

なぜタエ子は「生きる」決心を実行に移すことができたのか?

物語分析の用語で言えば、主人公の援助者 — シンデレラにとっての仙女 —の役割を果たすのが、トシオである。

トシオは、会社勤めを辞め、農家に転職したばかりの田舎の青年。もっと若い頃は東京に出たかったけれど、その夢が叶わず、今は有機農業に熱心に取り組んでいる。
前向きで熱意がある。ユーモアを持ち合わせ、照れ屋。「有機農業は勇気の出る農業、勇気の要る農業」などとダジャレを言った後、エヘッと笑ったりする。

農業の現実を少しだけだけれど、タエ子に体験させてくれることもある。田んぼの仕事がどれほど大変かわからせる。もちろん、今のタエ子には一日中そんな作業をすることはできず、すぐに疲れたと音を上げる。

ただし、タエ子の田舎好きが取り立てて表面的というわけではなく、紅花摘みをするために、東京から早朝に山形に駆けつけ、すぐに作業を手伝う。

紅花の勉強もしていて、かつて農家の娘達は貧しく、自分たちが手を痛めながら摘んだ花でありながら、白粉をつけることができなかったという歴史を学んできている。
こうした歴史は、格差のある社会の現実、農業の厳しさを、概念的に理解することにつながる。

トシオが伝えるメッセージで、最も根本的なものは、人間と自然の関係

都会の人は、森や林や水の流れなんか見ですぐ、自然だ自然だってありがたがるでしょう。でも、ま、山奥はともかく、田舎の景色ってやつは、みんな人間がつくったもんなんですよ

これは、日本人の自然観にとって、決定的な重要性を持つ言葉である。
私たちが自然だと考えるものは、実は、人間が手入れをして、今の自然にしている。何も手を加えない原生林であるよりも、田んぼや畑があり、農家の家があり、その後ろには、山が連なる。
人間は、自然と共存しながら生きてきた。山の木々にも人間の手が入り、整えてきた。

都会人が手つかずの自然と思い込んでいる美しい田舎の風景は、人間と自然が手を携えて作ってきたもの。
こうした高畑監督の自然観は、人間が到達できない自然=実在しない自然を想定する宮崎駿監督の自然観とは大きく異なっている

宮崎監督の場合には、「もののけ姫」のシシ神の森に代表される手つかずの自然こそが、根源的な自然となる

高畑監督の自然観を受け継ぐトシオは、自然と人間の共同作業に重きを置く

百姓は、たえず自然からもらい続けなきゃ、生きていかれないでしょう? だから自然にもね、ずーっと生きててもらえるように、百姓の方もいろいろやって来たんです。まあ、自然と人間の共同作業っていうかな。そんなのが、多分、田舎なんですよ。

これがまさに、トシオの考える有機農業である。それは単に農薬や化学肥料を使わない農業というのではなく、「生きもの自体が持っている生命力を引き出して、人間はそれを手助けするだけ」という「カッコイイ農業」。

こうして、トシオはタエ子に田舎とは何か、彼の一生懸命に取り組む農業がどのようなものか伝える。
が、それと同時に、彼がタエ子に対して果たす役割も暗示している。その役割とは、タエ子の生きる力を引き出す手助けをすること。

タエ子にとって決定的な思い出は、あべ君に握手を拒否されたことだった。
彼女は、いきなり結婚の話を切り出され、本家から逃れ出た時、偶然出会ったトシオにその思い出を語り始める。
その時のトシオこそが、物語の援助者であり、タエ子の生きる力を手助けする役割を果たしている。

トシオはタエ子の思い出を聞きながら、何も言わない。そして、タエ子がほぼ話し終わり、感情が高ぶるのを見て、「本家でなんかあったんですか?」と声をかける。
それに対して、タエ子は、本家のことは何も言わず、今の自分について口にする。

私、子供の頃からそんなだったの。ただいい子ぶってただけ。今もそう。

子供の時の自分と今の自分が同じだという認識は、心の底ではずっと思ってきたことかもしれない。しかし、トシオにあべ君の話を聞いてもらっているうちに、はっきりと自覚したのだろう。
そして、自分の田舎好きも、もしかすると「いい子ぶってるだけ」なのかもしれない、と。

トシオはそんなタエ子に対して、あべ君がどうして握手を拒否したのか、二つの考えを伝える。
1)あべ君はタエ子のことが好きで、わざと意地悪をした。
2)あべ君は、他の子たちには突っ張っていたから、先生の言う通り握手をした。しかし、タエ子には「甘える」ことができたので、自分の本音を出すことができ、握手をしなかった。

この解釈のどちらにも納得しないタエ子は、私はあべ君を苦しめた、取り返しがつかいことをした等と言い続ける。
トシオは、もうそうした言葉には反応せず、車にエンジンをかけ、本家に戻ろうと言う。

この場面で大切なことは、言葉のやり取りではなく、タエ子がトシオに対して本音で話し、彼に「甘える」ことができたと感じたこと。
いい子ぶるのではなく、甘えてもいい。どんなことに対しても、「奪われるのが厭さに与えない心」を持ってきたタエ子は、この車の中で初めて、トシオに対して「いい子」であることを止め、今の自分をさらけ出す一歩を踏み出すことができる。

もちろん、その時に全てをすぐに行動に移すことができるわけではない。車の中で、今、手を握って欲しいのはトシオさんだとか、「握手だけ?」等と思ったりするが、その時には思いだけで、実際にそうすることはない。
この時の思いの実現は、ラストシーンで、電車を降り、田舎に戻ることで、果たされることが示される。

このように見てくると、トシオの役割とは、27才のタエ子が再びサナギの時期を経て、蝶となって羽ばたく手助けをすることだということが、理解できる。
トシオはタエ子に対しても、「カッコイイ農業」をしている。

映像表現

27才のタエ子のような心持ちは、誰にでもある。今の自分を見つめ直そうとすれば、自然に過去の自分の思い出が蘇る。

高畑勲監督は、「おもひでぽろぽろ」の中で、二つの時代をはっきりと描き分け、昭和41年と昭和57年の時代を映画の中で実感できるように、非常にリアルな演出をしている。
それと同時に、映像は明確に区別し、思い出の場面は白が強く、全体的に淡い色で描かれている。
それに対して、山形旅行の時間帯では、非常にリアルな表現が用いられ、細密画のようにさえ思われる。

こうした映像の対比によって、いつ思い出が現在に侵入してきても、観客にはそれがすぐに肌で感じられる。

「おもひでぽろぽろ」は全くファンタジーの要素がなく、現実主義的な小説のようでもあるので、なぜアニメーションで制作する必要があるのかと、問題提起されたりもした。
しかし、絵は現実を忠実に再現することが目的ではなく、描くものの見方で現実を捕らえ、表現することである

カメラで撮影するのと、写生とは違う効果がある。
思い出と現実体験の描き分けを体感するだけでも、この映画がアニメーションであることの意義は感じられる。

高畑勲監督のメッセージは、物語だけではなく、映像そのものからも伝わってくる。

こんなことを考えながら、高畑監督が訳詞を付けた「愛は花、君はその種子」を聞き直してみると、監督が意図がよく感じられる。

制作ビデオを見ると、「おもひでぽろぽろ」がどれだけの労力をかけて作られ、素晴らしい映像になっているのかがよくわかる。

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