戦争における成果
あるニュース記事で、「14時間で100人射殺…イスラエル混成部隊の女性リーダーが叫んだ言葉」というタイトルを目にした。
その冒頭は、次のように綴られている。
100人射殺して、それを誇る気持ち。。。
この記事を書いている記者も、兵士は国家のために戦っているのであり、ハマスというテロリスト集団に対する報復なのだから、正義の戦いという全体に立っているに違いない。
記事は続く。
次は実際の戦闘の状況説明。
そして最後に、女性の兵士としての能力が男性に劣るものではないとする、この記事の主張。
国境の安全を守るという前提に立てば、兵士として敵を数多く殺戮することが、優れた能力と見なされる。
そして、「14時間で100人射殺」という数字を、誇らしいものと感じる。
しかし、普通の生活の中で、これだけの数の殺人を犯したら、どうなるだろうか?
市民生活における銃撃
ほぼ同じ時期、アメリカでまたも乱射があった。
ある新聞の見出しには、「米メイン州のボウリング場などで銃撃、18人死亡」と書かれている。
その事件を起こした犯人は逃走中で、逮捕状が出されたという。
ごく当たり前の市民感覚では、武装した人間は危険だという当たり前のことが当たり前に書かれている。
そして、なぜ犯行に及んだのかという理由の一端も推測される。
要するに、こうした銃撃事件を起こす人間は、精神に問題があるに違いないと推測され、容疑者の過去が調べられる。
そして、こうした事件がある度に人々は悲しく、犠牲者や家族に追悼の意を捧げる。
銃によって殺害された人々を悼む気持ちを持つこと。それがノーマルな反応だし、普段であれば誰もがそうした気持ちを共有する。
戦争は人間の感覚を麻痺させる
この二つの記事をほぼ同じ時期に目にした時、その対照に驚きを感じないだろうか。
正当な理由があれば、人を殺すことは許されると考えられる。
戦争で、相手の兵士を殺すことは、能力の証明にさえなる。
このコンテクストに置かれると、「14時間で100人射殺」というタイトルを見て、ぞっとする感覚が失われてしまう。
それほど戦争は人間の感覚を麻痺させ、人間性を失わせてしまう。
だからこそ、正義のためであったとして、戦争は避けたい。