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私について

自己紹介をまずしたいと思います。私は千葉県茂原市に1985年に爆誕しました。

京成電鉄に勤めるおとんと、広島風お好み焼きの飲食店を営むオカンの次男として生まれてきて、上に2個上の兄さん、下に6歳違う妹と12歳違う二人目の妹の4人兄弟です。

親の性格は真反対で母家系の方は経営一家で自分で未来を切り開くタイプ、父家系の方は人に決められた仕事を寡黙にこなすサラリーマン家系で、私は母家系のタイプだと思っています。

小さな頃から人とはちょっと違った考えだったみたいです。よく母から言われるのは小学校一年生の授業参観で道徳の時間に『満員の電車に年配の方が乗ってきました、どうしますか?』との答えに、みんな『席を譲りまーす』と、私『そのおばちゃんが空いてる時間にずらして乗るべきでーす』。。。。私は今でもその考えは間違ってないとおもてますがオカンは恥ずかしかったそうです。

中学高校となぜか野球をやっていましたが、私は野球が全く好きではありません。好きだったのはそこに集まった仲間と同じ時間を共有していることだったと思います。

高校卒業後はそのまま千葉調理師専門学校の調理科に入ります、初めて勉強が楽しいと思える環境になり、初めて成績がトップ3になるということを経験しました。その冬にヨーロッパ研修があり、オカンは借金して私を行かせてくれました。イタリアとフランス、2週間ぐらいの旅だったかな。調理学校の姉妹校がイタリアにあり、そこで同世代か少し若い現地の人のクラスに混ざって一緒に勉強しました。私達は18歳でプロになるって決断して専門学校に入り、和洋中、製菓から一つを選びますが、彼らは16歳で決断し、専攻はイタリア料理のみ、覚悟の度合いが違ってました。そんな彼らに影響を受けて帰国後に銀座東部ホテルの川端料理長の元で働くことが内定で決定し、卒業後はそこで働くことになります。

住む場所はおとんの仕事の下請けの会社の社長が持っていた葛飾区柴又のマンションの一室、3LDKの60平米ぐらいの部屋で、『いくら出せるんだ』って言われたので『6万円』と言ったら『じゃあそれでいい』と。その後そこは私が買うことになるのですが当時はよくそのお金で貸してくれたなって思ってました。

ホテルのでの仕事や、その後にアメリカに来る過程はまた別の記事で書こうと思います。

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