見出し画像

世界地図

 彼女が持ってきたのは世界地図だった。
 まだわたしも、彼女も子どもだったころ。
 わたしは水筒にお茶を入れ、おやつの準備も万端で、自転車にまたがって彼女を待っていた。目指すは海。わたしたちの生まれ育ったのは海からは程遠い内陸の郊外、自転車を一生懸命漕いで三時間はかかる長丁場だ。途中には山を越えなければならない。控えめに言って、その頃のわたしたちくらいの子どもにとっては大冒険と呼んでも差し支えないだろう。しっかりした準備をしておかなければ、あとで痛い目を見るのは火を見るよりも明らかだ。
 きっかけは男子たちの会話だった。ブルーな月曜日の朝の教室。これ以上にブルーになれないようなシチュエーション。
「自転車で海まで行ってきた」と、クラスの悪ガキたちが誇らしげに言っていたのだ。ギャーギャー騒いでうるさいったらないし、わたしは彼らを軽蔑していたから、普段であれば「バッカみたい」と思って終わるだけだし、その時も最初は「バッカみたい」と思った。その瞬間までは。
 その瞬間、悪ガキどものリーダー格がわたしの方を向いて言ったのだ。「お前らにはできないだろ?」目に焼き付いている嘲るような表情。持てるものと持たざる者?海まで自転車で行った?だから?そんなもの別にいらないけれど、と思うよりも前に、その一言にカチンと来た。できないのではなく、やらないだけだ。やろうと思えばわたしにだってできる。と、思ってしまった。思ってしまうと、急には止まれない。
「できるよ」
「は!」と、鼻で笑われる。頭に血がのぼるのがわかる。
「今度の休みに行ってくるから」と、わたしは啖呵を切った。
「今度の土曜日」と、その放課後に、わたしは一番の仲良しである彼女に言ったのだ。「自転車で海に行こう」
「へ?」と、彼女。「なんで?」
「悔しくないの?あいつら」
「いや、別に」
「悔しいじゃん」
「まあ、落ち着きなよ」と、彼女は言った。「あんたは自分が自転車で海まで行けるって知ってるんでしょ」
「うん」と、わたしは頷いた。知ってるのかどうかはわからないけれど、行けると信じてる。
「じゃあ、それでいいじゃん。自分が世界一足が速いって知ってる人は、きっと誰とも競走しないよ。確かめるまでもないんだから」
 わたしはいまいち腑に落ちない。「とにかく、わたしは証明したいの」
「わかった、わかった」
 と言うわけで、わたしたちは自転車で海を目指すことになったのだ。そして、わたしは水分や食料の準備、彼女は地図を用意することにして、当日を迎えたのだった。どちらも必要不可欠だ。喉が渇くだろうし、お腹もすくだろう。地図が無ければ道に迷うことになるはずだ。
 そして、彼女が持ってきたのは世界地図だった。
「どうして」とだけわたしは言い、絶句した。彼女の頭の上にはクエスチョンマークが浮かんでいる。「なんで、世界地図なの?」と、わたしはどうにか絞り出した。
「ダメ?」
「いや、ダメでしょ。わたしたち、いまどこ?」
「ここ」と、彼女は地図上の一点を指す。
「じゃあ、どこに行くの?」
「ここかな?」
「どんな道で?」
 ふたりそろって地図を凝視する。その世界地図の上では、たぶん一ミリにも満たないくらいの距離を、わたしたちは移動することになる。そして、わたしたちに必要なのはその一ミリの距離の曲がりくねったり、登ったり下りたりの道なのだ。一ミリの、ほんの爪の先ほどのそれでは、そういうわたしたちの求めている情報は読み取りようがなかった。
「ダメかあ」と、彼女は言った。「これしかなかったんだよね」と、さも悔しそうだ。
「行きたくなかったんでしょ?」と、わたしは恨みがましい口調で言う。「でしょ?」
「いや」と、彼女は肩をすくめる。
「わざとらしい!」と言って、わたしは自分のお腹の底から笑いが込み上げてくるのを感じた。おかしくておかしくてたまらない。だって、世界地図なんて持ってくる?ゲラゲラ笑うわたしを不思議そうな顔で見ている彼女は、もしかしたら本気でそれを使って海まで行くつもりだったのかもしれない。そう思ったら、さらに面白くなって、笑えて笑えて、気づくと彼女も笑っていた。そうして、くたびれるまで笑った。笑い疲れると、わたしたちは改めて世界地図に目を落とした。
「広いね」
「うん、広いね」
「世界」
「うん、世界だ」
 結局、わたしたちは海に行かなかった。公園で、延々とその世界地図を見て、水筒のお茶を飲み、おやつを食べて家に帰った。なんだかそれで充分な気がした。
 そして、月曜日。
「海まで行ったのかよ?」とニヤニヤしながら男子が言ってきた。むしろ、その時にはじめて海に行くなんて宣言をしたことを思い出したくらいだ。あの、ほんの一ミリの距離。
「あんたって、ちっちゃいなあ」と、わたしが言うと、そいつはきょとんとしていた。
 世界は、広いのである。


No.555


兼藤伊太郎のnoteで掲載しているショートショートを集めた電子書籍があります。
1話から100話まで

101話から200話まで


201話から300話まで

noteに掲載したものしか収録されていません。順番も完全に掲載順です。
よろしければ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?