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25.Dec.2019 海外の日本人の不思議な同族嫌悪

昨夜はパーティーで賑やかな時間を過ごした。夜遅くに疲れて帰ってすぐ眠った。生活リズムを逸脱した悪睡眠スケジュールの割に体は7時間後に正確に目覚め疲れも残っていない。若さって素晴らしい。

人間はガヤガヤする空間と静かな空間をある程度バランスよく味わっていく必要があるのだと思う。僕はどちらかと言えば静かに過ごしていたい傾向があるが、時折パーティーなどの社会的空間に赴き多くの知らない人と知り合い会話をすることも大切なことだと思う。昔に比べ随分良くなったものの僕は人見知りすることがある。しかし不思議なことに英語の方がより社交的になれる。(パーティーには日本人もいた)

今日は一日を家で大人しく過ごした。祝日だったのでお店も空いてないところが多いはずだしバスも電車も本数が少ないので天気は良かったが家にいるのがおおむね正解だったように思う。

久しぶりに辛いものが食べたくなってしまったので辛ラーメンにもやしを乗せて食した。それが本日最大のイベントだった、というくらいには非常に大人しく過ごした。

もちろんずっとじっとしていたわけではなく、本を読んだりストレッチをしたり調べ物をしたり昨夜交わした会話を脳内で再生してはそれについて考え事をしていた。

海外における日本人同士の謎の同族嫌悪について考えてみる。

これは昨夜の会話の中で持ち上がったトピックのひとつだ。他の日本人留学生の留学に対する温度差に違和感を感じるというものだ。これについては以前僕も考えていたことがあり、それについて一通りの結論が出ているので書いておく。

結論から言うと、「生き方は人それぞれ」で、「どうでもいい」のだ。誰がどんな思いで留学してもそんなことは誰の知ったことではないし、誰かが口を出して良いものではないと思う。なのにも関わらず「海外という環境において」「日本人である」というだけで目につくが故に日本人コミュニティ内で話題に挙がる。

他者の内側など本物の意味で理解することは不可能であり、そしてその人物の文脈を想像する余裕があったならば我々は誰も否定することはできないのだと思う。

誰か特定の人間を例えば一つの分野におけるものさしで測った時、その基準の中で良し悪しを語ることはできるのかもしれないが、「人間としての生き方」についてあれこれ言うのはお門違いも甚だしい。

仮に、各々の心の中で誰かを反面教師の材料にすることはできても、それについて誰かと共通の敵として語り合うのは非常に不毛な会話なのではないかと思う。

今日はここまで。(眠い中書いてしまったので上手くまとめられなかったような気がする上、もう少し書きたかったので明日また編集するかもしれない。)


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