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フロ読 vol.28 吉川栄治 『随筆 私本太平記』 講談社 吉川英治歴史時代文庫

「南北朝文化展を観て」の一文に、足利尊氏の「清水寺願文」についての感想が書かれている。

書風からは見得、辺幅をかざらない尊氏の人間味もうかがわれる。うそでは書けない願文だし、筆のあとだ。私は彼と対決するように睨んでいるうち、なにか悲しくなってしまった。

なるほど書とはそのように観るものか。吉川英治の簡浄な文体は、私がまだ見たこともない書の前で、ぐっと腕組みをして動かない小説家の像をありありと浮かび上がらせる。
 
p120の一文もよい。

ぽつんと、白絹の上にのっていた根来椀の朱ザビと線が、ひどく印象的だった。これを作った無名の工人や庶民をかすかに感じさせる。もちろん庶民の用途になった物ではないが、この一器の影に、あの時代をどう生きたか、庶民の生業みたいなものを私は見つけようとした。

本文の後半には「随筆 宮本武蔵」が収められている。その序も唸らせる。

古人を観るのは、山を観るようなものである。観る者の心ひとつで、山のありかたは千差万別する。
無用にも有用にも。遠くにも、身近にも。
山に対して、山を観るがごとく、時をへだてて古人を観る。興趣はつきない。

文学的信念が小説にはないからだろうと、友よ、笑う勿れ。この不敵者にも、多分な臆病がある。
大衆は大智識であるからである。
それと、自分の景迎する古人に対して、当然な、礼としても、私は畏れる。

吉川英治には創(きず)がある。『三国志』を読んでいて、そこに李白の詩が引用されているのを見たときは、その時代考証の甘さに興を削がれた。松岡正剛の千夜千冊1165夜『百人一書』の中では、「長じてお習字をすると、こういう事になる」と酷評されてもいる(もっとも、その後で「それがこの人には心底の遊びだった。そういう、人に見せない書もあっていい」とフォローされてはいるが)。

確かに勘ぐってみれば、通人を気取って勝手な解釈をしているように見えなくはない。それでも小学校しか行っていないという彼が、何とか古人やその歴史に迫りたいと歩み続けた文章は、独自の洗練を以て私を惹きつけてやまない。
 
高校生の時に買った『宮本武蔵』は何回読んだか分からないほどだが、未だに読んでいて一向に飽きを感じさせない。上記に挙げた作家の鑑賞も、本物の通人から見れば、児戯にも等しい鑑賞かも知れない(実際、そういう批判をよく目にする)。今の価値観で言えば、物書きのプロには許されぬ創かも分からない。

だが、どうだろう。却ってそういう「創」や「児戯」こそが、私にはひどく懐かしく好ましく思えてならない。「児戯」の逆は「大人の生業」なのだろうが、それこそ「児戯」にも及ばぬ抽象作業の「生業」にすっかりうんざりしている自分にとっては、児戯であろうと真剣に向き合う人生の方が数倍輝いて見える。
 
設定を他者の努力に頼った「創」の無い作品が盛況の中、顔に傷一つなきイケメンのような小説よりも、真理に迫る気迫を込めた深い皺が刻むダンディズムの方を私は択びたい。一日の終わりのフロ読にはそちらの方がよく似合う。それは間違いないかな。

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