見出し画像

【宗教2世支援者養成講座02】支援者としての資格、資質、条件


 前回の「はじめに」でもお話したように、この「宗教2世」という存在はまだ、いわば発見されたばかりの、まっさらな状態であると考えることができます。

 課題対象としての「宗教2世」がまっさらである、と仮定すれば、これも前回お話したことですが、「自助グループ」が二人のアルコール中毒の「ふつうのおっさんたち」によって始まったように、けして心理学の専門家によって扱われるべきものとか、あるいは宗教学の専門家によってケアされるべき存在であるとか、そうした先入観はいったん除外してみることも大切です。

 これから扱う「宗教2世支援者」という存在もまた、べつに公的な資格でもなんでもないわけですから、これもまっさらな状態で

『ただ、宗教2世に寄り添える人』

というニュアンスで捉えてみましょう。


 この記事を書いているわたし、武庫川はもと高校教員ですが、基本的な信念として

「学校の教師は、そこらへんのおじちゃん、おばちゃんでも務めることができるものでなくてはならない」

という考え方を持っています。

 もちろん、現実的には真逆で、教科の知識や指導力、子どものメンタルに対する理解や対応力など、いろいろな専門性を必要とする仕事になってしまいましたが、教師は一人で何役もこなせるスーパーマンではありませんから、本来的には、それらの多様な仕事は、

「別々の人材、専門家によって割り振られるべきもの」

と考えることもできると思います。

 その意味では、家に帰れば普通の父母であり、ふだんは普通の人間である人たちが、「教える」ということに特化して教師になっているだけであり、一人に過剰な専門性や、幅広い能力を要求することこそが、逆にどうなの?という気持ちがあるわけです。


 このことをつきつめると、もっと根源的な、重大な問題と関係してきます。
 それは、たとえば宗教2世の人たちは、いろいろな問題行動を子どもたちに対して起こす「宗教1世」によって育てられた結果、自分たちも困難を抱えるようになったと考えられるわけですが、

「きちんとした、ただしい、間違いではない子育てをする者しか、親になってはいけない」

といった条件付けをするならば、話がおかしな方向になってくるという問題です。


 宗教に惑わされたり、虐待を行ったり、子どもたちに誤った価値観を押し付けたり、いろいろな制約を課してくるような、そういう親は「資格を満たしておらず、本来は親になるべきではない」といった仮定を行えば、それは、人間の本来的な人権にもひっかかってきますし、なんだか優生学のような「正しいものしか子孫を残してはいけない」といった、気持ちの悪い論理につながるような気がするからです。


 本来であれば、「誰であっても親になってよい」ということが自然です。仮に父母として、弱い部分や間違った部分があっても、周囲の力や社会の力で、それに寄り添ってゆけるような、そういう人間社会でありたいな、と考えます。

 同じように「ふつうの父母が、職業として教師を選び、自分の子どもたちにも精一杯の愛情を注ぐことができる」ことが自然だと考えるわけです。


 すべてのことは、こうした考え方に基づいていますから、「宗教2世支援者」は特別な存在ではありません。

 もっともっと、普通の、平易な資質で、その務めを果たすことができると私は思っています。

 もちろん、心理学的知見、宗教学的知見が必要であったり、それに通じているに越したことはありませんが、まずは

「宗教2世に、ただ寄り添える伴走者」

というナチュラルで、かつニュートラルなイメージで捉えていただければと思います。


 ただし、そうした本来であれば「自然体としての人間」として条件を付けずにありたい「宗教2世支援者」の資質、資格ですが、さすがに

『トラウマやPTSDといった、内面的傷』

に触れるものであるだけに、いくつか注意すべきポイントがあろうかと思います。


 まず、大前提として「宗教2世支援者」はかつて同じように宗教環境にあって、自分も傷ついた存在であってもかまいません。それは、自助グループが、バリバリの当事者、めちゃくちゃ問題を抱えた当事者たちによって始まり、いまもその形態で運営されていることからも明らかです。

 しかし、それでは「当事者」のままで、「支援者」としてのもう少し踏み入った立場には至っていません。


 そこで、「支援者として望ましい資質」として、

■1 宗教環境下にあった、かつての自分と今の自分を客観視できていること

という項目を挙げてみたいと思います。

■2 支援対象者に心から共感できる力と、客観視できる力


と言い換えてもかまいません。


 これを平たく言えば、自分も宗教2世であったことに対して「その傷が治っていること」のようなイメージになるわけですが、実際には「治る」というのはとても難しい表現で、いくつになっても、どれだけ時間を重ねてもあとから

「あ、自分はこんな面で宗教環境下の影響をまだ受けているんだな」

と気付いたりもします。なのでこれは「宗教環境下の影響をまったく受けていない、完全に治った状態」を意味するのではありません。

 完全に治らないと支援者になれない、という考え方だと、また「完璧な親」理論とか「完璧な教師」理論のワナに落ちてしまいますよね。

 そうではないのです。


 大切なことは、「自分の過去をきちんと整理して納得している」とか「自分と親の関係を、ある程度の落とし所に落とし込めている」とか、「宗教環境や、親に対して、適度な距離感を安定的に築けている」といったことでしょうか。

 伴走者として支援対象者とかかわる時、「自分に似た状況」などにたくさん触れることがあると思います。

 そうした時に「共感力」がとても力を発揮して、共感できること、共感し合えることが対象者にとっての希望ともなるでしょう。

 しかし、そこで「客観視」が出来ていないと、「傷に引っ張られる」「ともにダークサイドに落ちる」「対象者のほうが、マシじゃん、と嫉妬する」といった、問題が次々に生じます。

 最悪なのは、「対象者と支援者が、共依存に陥る」ということでしょう。


 このように「共感力と客観視」は、ある程度相反するような、バランスを必要とする力関係にあります。

 そのバランスを維持し、バランスのなかで対象者との並走を進めることが、支援者としての資質、ということになるでしょう。


 逆に言えば「資格・条件」といった、厳しい枠組みは必要ないのですが、本当にこのバランス資質は、唯一でいちばん大切な要素となってくるでしょう。


 最後に、その資質を自分が満たしているかどうかの、もっとも簡単なチェックをしてみましょう。次の問題に対して、みなさんはどう答えるでしょうか。ひとつの判定基準としてみてください。


問 「自分の過去、宗教環境や親に対して、あるいは社会に対して、教団や組織に対して、怒りや恨みを持っていないこと」


 判定テストは、たったこれだけです。

 怒りや恨みがある人は、支援者となるのは、待ってください。

 あなたは支援者ではありません。

 あなたはまだ、支援対象者の側にいるからです。


(つづく)



 


 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?