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【宗教2世支援者養成講座03】白黒・善悪二元思考のワナ


 これはすべての宗教において言えることですが、宗教はかならず「善と悪」「正義と不正義」「白と黒」「信じるものと信じないもの」「自分たちとそれ以外」「求道者とそうでない者」などを2つに分ける機能を持っています。

 もちろん、八百万の神を信じるような日本の神道などは、神々の性格・性質の多様性をバラエティとして捉える考え方を持ってはいますが、それでも「ハレとケ」「清めと穢れ」といった、かなり厳格な切り分け概念も有しています。

 特にカルトやキリスト教系宗教において顕著ですが「神に選ばれた者」といった選民思想や「天国や楽園に行ける我々と、滅ぼされるあなた方」といったジャッジや判定は、かなり強烈な思想として心に焼き付けられます。


 宗教1世はもちろんのこと、宗教2世もまた、こうした濃密な「二元論」思考に支配されてきた過去がありますから、いくら「治った。客観視ができるようになった」とはいえ、まだまだそうした考え方の傾向が抜けきらない可能性もあるでしょう。


 そうした傾向は時に「ついつい、物事をジャッジメントしてしまう」という問題をもたらします。

 宗教2世支援者の心がけとして、「ジャッジメント」を保留する、ということを意識してみましょう。


 ここで、実践的な問題をひとつ挙げてみます。みなさんは既に「宗教2世支援者」として、どこかの誰かの支援対象者と出会い、相談を受けているとしましょう。その若者(仮に未成年としましょう)が、あなたにこんな相談をするのです。


問 「うちの両親は厳格なイスラム教徒で、当然一日に決まった回数の礼拝を行ったり、戒律を守っています。その中で、うちでは豚肉が食べられないので、家庭料理では出てきません。でも学校給食では豚肉が出てくるので、先生に自分は豚肉が食べられないことを話して、避けてもらうようにしています。苦しんでいます」


 さて、あなたはどう答えるでしょうか。


 宗教2世支援者、という活動を想定すると、自分が属していた宗教や、理解している宗教以外の内容にも遭遇することがあります。

 その時にはじめて「宗教とはなんぞや」ということを、再確認、再認識する必要があったり、あらためて、「ざっくりとした宗教的知識、概念を自分のなかで整理しておく」という必要があったりするでしょう。


 そうした中で、まず大前提として「ある宗教を正しい、間違っているとジャッジメントすることは、望ましくない」ということを意識すべきです。

 支援者として、個人的にはこの若者の発言に思うところはたくさんあるかもしれませんが、「イスラム教」を何らかの考えや感覚、感想に基づいて否定することは、避けるべきです。

 あなたが、個人的にその宗教をジャッジメントすることは、いったん保留にしましょう。それは、どこかの誰かの「信教の自由」を侵害することになるかもしれないからです。


 さて、宗教2世支援者として、いちばん最初にやるべきことは、「問」に対しての「答え」を探すことではありません。ましてや「答えを出す」ことに焦らないでください。

 最初に取り組むべきことは、相談者に対して、「傾聴し、共感し、受け止める」ということになるでしょう。

 これは、臨床心理的な実践では、すべてのベース、基本中の基本です。

 心理士やカウンセラーも傾聴からはじまり傾聴に終わりますし、初診受付する看護婦さんでもそうです。トラブルがあったときの児童生徒への対応でも、教師はまず傾聴します。

 親子関係でもおなじです。たとえば兄弟ゲンカがあったとして、親の意見で何かを決めつけるより先に、まずは傾聴することがすべてのスタートですね。

(ところが宗教環境下にある親や、毒親などは、この傾聴をすっとばして、ジャッジメントを行ったり、問題の放棄を行ったりします。みなさんの中にも、その体験の記憶がある方も多いことでしょう)


 相談者に傾聴し、その「困っている」という感覚に共感しながら話を聞いてゆくと、次の段階として問題の深みが見えてくるかもしれません。

 たとえば、その若者は「とても宗教を嫌っている」のか「宗教を嫌っているわけではないが、みんなと一緒に給食を食べられないということだけ悩んでいる」のかもしれません。「基本的には親子関係は良好だけれど、戒律については疑問を持っている」という場合もあるでしょう。

 それくらい、個々の家庭、それぞれの個人の状況によって、話が変わってくるわけですね。


 その上で、次の段階として、厚生労働省から発出された「宗教虐待に関するガイドライン」に相当するかどうかの、照らし合わせは一度行う必要があると思います。


「厚労省ガイドライン」

https://www.mhlw.go.jp/content/221227_02.pdf


 また、該当するかどうかをあなたが単純に伝達するというよりは、支援の中で、互いに読み合わせをしてゆくような方向性が望ましいかもしれません。

 その手順の中で、相談者である宗教2世が、自分の置かれている状況や、気持ちに気付いてゆく、というプロセスを踏むことが、望ましいものだと考えます。

 伴走者は「指導者」ではありませんので、あくまでも主体は「支援対象者」にあります。

 ものすごく突き放したようなことをいったん書きますが、その問題は支援者であるあなたが抱えるべき問題ではなく、その対象者が最終的にはケツを拭くべき問題だったりします。

 お手伝いはいくらでもするけれど、責任を取るのは、対象者自身であるということもよくあることです。


 前回、「怒りや恨みを持っていないこと」を唯一の条件として上げましたが、怒りや恨みがあると、支援対象者の課題を「自分のこと」として受け止めてしまい、勝手に何かを「敵認定」して、それを倒したり、それをジャッジして、修正しようとする過ちに落ちる場合があるでしょう。

 その場合、対象者のネタを使って、自分の過去への恨みを晴らすような、歪んだ支援が生じがちです。

 そして、それを「正しいこと、対象者のためにやるべきこと」のように勘違いしてしまいがちですので、十分に気をつけてほしいと思います。


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 今回の気付きです。

 イスラム教の環境下にある若者の相談を読んだ瞬間に、「それは、これこれこうやろ」とか「それって虐待じゃね?」といった「瞬発的ジャッジ」をしてしまった人がたくさんいると思います。

 その時点で、最初にやるべき「傾聴」をすっかり忘れていますよね?

 先に挙げた問は、それを誘発するためのひっかけ問題ですから、あなたはまんまと私の誘導に乗せられてしまった、というわけです。

 ぜひ「いや、ちょっとまてよ。これはじっくり話を聞いてみないとわからないな」という感覚を身につけてください。

 人は誰でも「意識して、気をつけておかないと瞬発的ジャッジ、を繰り出してしまう」傾向があります。

 宗教環境下にあった人は、まさしくその傾向を持っています。ですから、これは意識的な訓練でそれを取り除く必要があります。

 瞬間的に、ジャッジはしてしまう。それは実はしょうがないのです(笑)

 けれど、意識していったん保留にする、というクセをつけてほしいなあ、と思います。


(つづく)



 

 


 

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