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【宗教2世支援者養成講座05】セカイ系と主人公


 少し前に、「宗教に何を求めるのか」という議論をネット上で行っていた人がいて、それに参加させてもらったことがあります。

 結論から言えば、大きく分けて3つの効果・効能・メリットがある、といった感じに話がまとまってゆきました。


 ひとつは「コミュニティ」的なもの。

 これは宗教コミュニティに属することで、居場所や安心感などを得る効能とでも言えるでしょう。また、たとえば「清廉潔白を是とする」人たちが集まることで、基本的には「そうではない、ウェイな人たちがいない空間」にやすらぎを得るような、そうした「同質化」を求める気持ちなども背景にあるという考え方です。

 もちろん、コミュニティ機能としては、仮に「バスケットボールのクラブ」でも良いわけです。こちらには「元気溌剌なスポーツ好き」たちが同質化して集まりやすいですから、自分の傾向、性格、考え方、好きな雰囲気によって「どんなコミュニティに吸い寄せられるか」は人によって異なるということになるかもしれません。
 さらに言えば、「ウェイで享楽的な人たちが集まりたいグループ」だって、あってよいわけですね。それはおそらく、宗教という形を取らず、どこかの夜の街のクラブみたいになるのかもしれませんが。


 次に「物語的」なもの。

 これは人生を進めてゆく上で「どんな物語を歩むのか」ということに関係します。「天地創造と神のご意思に従って生きる」という物語もその一つですし、「地方から上京して成り上がる」とか「仕事を頑張ってひとかどの職人になる」とか「家族を大事にする」とかも全部、その人が描く「物語」ということになります。

 ただし特徴があって、宗教の場合は、「個人の物語」よりも「教義・集団の物語」のほうが優先される傾向があります。キリスト教では「専心・洗礼」であったり、仏教では「出家」であったりするように、「個人の物語を投げ出して、宗教の物語に身を投じる」ことが起きがちです。

 そのことの是非はいったん横へ置いておきましょう。そういう機能があるということですね。


 さて、最後になって議論に現れたのは、すこし興味深い概念でした。それは「大いなるもの」「大いなる存在」「ハイヤー・パワー」なるものとのつながりです。

 少しスピリチュアルめいているかもしれませんが、それを「神」と呼ぶかは別にして、人間の世界では理解できなかったり、それを超越した「何か」「大きな存在」を意識することで、そういうものと自分をつなぐことによって「安心や安定、よりどころ」を得ることができるのではないか、という話でした。

 このハイヤーなるものは、ある意味では「物語」と領域が重なるかもしれません。天地創造の物語は、当然「全知全能の神」とリンクします。領域も重なります。キリスト教では、天地創造主がハイヤーパワーであり、その物語の中に取り込まれてゆきます。

 ところが、おなじ物語でも、「仕事を頑張る」とか「愛する彼と家族になる」といった物語は、地球上で起きている比較的卑近な、個人的な物語なわけですが、ハイヤー・パワーの物語は個人性を超越しています。

 この時、個人の物語に軸足を起きたい人もいるだろうし、高次元の物語に軸足を起きたい人もいるでしょう。そのあたりは、「宗教の魅力」を増幅させるのかもしれません。


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 物語論とハイヤー・パワー論は、領域が重なっていますので、ざっくりと分ければ前回の話に出てきたように「物語とコミュニティ」こそが宗教の本質だ、と捉えることもできるでしょう。

 けれど、今回は、特に「ハイヤー・パワー」との関わりに注目してゆきたいと思います。


 さて、近年近代の日本の若者文化に「セカイ系」なるジャンルがあります。
 セカイ系とは、簡単に言えば、「セカイの危機や、この世を揺るがす問題の根幹に、自分と(出会った異性が)関係する」という物語群のことを意味します。

 代表的な作品は、もうたくさんあるのですが「エヴァンゲリオン」「涼宮ハルヒの憂鬱」「最終兵器彼女」など、みなさんもどこかで何かしらの「セカイ系」作品に触れていると思います。

 ごく最近では、新海誠監督のアニメーション作品群なども、セカイ系の構造を如実に示していますね。

 さて、このセカイ系。少年少女向けの作品群として現れることが多いので、たいていの場合は「ボーイ・ミーツ・ガール」の構造を伴います。男の子と女の子が出会い、時には「恋」のようなものに落ちながら、それでいて二人の関係性が「セカイの成り立ちや滅び」に直結するような、そんな壮大な物語構造を持つものが「セカイ系」です。

 面白いことに、セカイ系には、直接的に「神」が登場することは稀(まれ)です。登場人物の男の子と女の子が、神と向き合うという場面はほとんど描かれません。

 それどころか、作品群において「神」らしきものはあまり登場しません。ぼんやりふんわりとした「超越的な事態」として描かれるだけで、そちらの意思があって、「神やハイヤー・パワーが何かを仕掛けてきたり、しでかす」というわけではないのですね。

 それよりも「男の子と女の子の関係性、ひどい場合には”気分”が、より大きな事態を引き起こす」みたいな描写もあったりするほどです。

 つまり、ここで注目すべきなのは、

「主体性は、主人公側にある」

という、すごい事実です。


 さきほど、この文章の前半で「宗教に自分を投げ出してしまう」といった話をしました。構造としてはたしかにそうで、「宗教に主体を預けてしまい、自己を失う」のが、宗教の恐ろしさ、問題点だったりするのですが、実は当時者や当人にとってはそうではなく、

「主体性は自分にある」

と感じていることが多いのです。


 これは宗教1世・2世への眼差しとして、理解しておくべき構造です。

 もうすこし丁寧に説明すると、「宗教側は、専心や献身を要求して、実は搾取している構造がある」としましょう。しかし「信者側は、自分が主体的にそれを選択していて、自分はセカイの主人公なのだ、と感じている」ということです。

 宗教の信者は「セカイ系物語の主人公として振る舞い、自分はハイヤー・パワーと繋がっている特別な存在だ」と思っています。

 このことが、話をとてもややこしくしてゆくのです。


 宗教2世と1世が噛み合わないのは、この部分にも多くの原因があることでしょう。

 子どもの側から見れば「お父さん、お母さんは宗教に取られてしまった」という話で、親を被害者的・可哀相な存在として見る視線があるとします。

 しかし、1世側からすれば「私は、あるいはわたしたちは、セカイの主人公になったのだ」と思っていますから、可哀想どころかヒーロー・ヒロインなのです。これでは話が噛み合いません。

 ヒーローやヒロインは、悪をやっつけるためにどんどん活動しますし、正義をどんどん子どもたちにも要求します。

 悪やサタン、敵側のものから子どもたちを守るという、さらなるヒーロー行為にも邁進します。

 いつも、彼ら1世は、物語の主体的な主人公を演じ続けるのです。


(参考)


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 宗教2世支援の現場では、直接的に親と対峙することは、なかなか難しいと思われます。誰かをその物語の主人公、ヒーローの座から引きずり下ろすことは、かなりの抵抗が予想されるでしょう。

 心地よい主人公から、哀れな被搾取者への転落は、あなたや私であっても、そう簡単には認めたくないものだからです。


 ですから、セカイ系の主人公である1世の物語は、とりあえずは「そこに手をつけるのは後回しにする」という作戦もあるかもしれません。

 私はそれをとりあえずの「世代間の連鎖を切り離す」作業だと思っています。

 この場合、優先されるべきは、支援対象者の、2世の側の「物語」を再構成してゆくことです。

 逆説的で、ある種のパラドクスに満ちた話なのですが、親にしても子にしても

「自分をその物語の主人公の座に置く」

ということが、大切なのですね。

 子どもである2世の物語を大切にして、2世をその主人公として位置づけるように支援するのであれば、変な話ですが1世が主人公である物語を、否定できなくなってしまうのです。

 ですから、それは支援者としては後回しにしてよい話だということになります。


 これを、論理的に説明すると

「大人にも信教の自由があり、子どもにも信教の自由がある」

ということになります。

 わかりやすいでしょう?



(つづく)



 


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