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【宗教2世ごろごろケア日記07】潜在的な「自立力」の話



 宗教2世のケアについて、ごろごろしながら書くお話。今日は、とっても面白い(といったら失礼な)ことを書こうと思う。


 もともと、個人的に誰かのメンター(助言者)的な活動をすることがあって、元教え子であったり、まったく別の活動で知り合った子なんかにいろいろとお話をしたり、手助けをすることが多いのだけれど、宗教2世問題に取り組むようになってから、関わる相手がぐっと増えたむこがわさんである。

 旧ブログなんかでは、そうした手助けした子たちとのやりとりを「おもしろおかしく」書いていたので、昔からのむこがわさんのファン(?)の人にはおなじみではなかろうか。師匠と弟子シリーズは、当時からけっこう人気のコンテンツだったように思う。

 幸せなことに、そうして関わりを持った人たちが、新しい自分の人生を切り開いていっている報告を今でも受けるのだけれど、師匠冥利に尽きるというものだ。

 
 むこがわさんの、対人援助の技術は、そうした弟子たちとの関係によって出来上がった、いわば「人間バトル」のたまものであって、そこには紆余曲折、傍若無人、喧嘩上等、悲喜交々(ひきこもごも)、愛多憎生(あいたぞうせい)のすべてがつまっている。


 愛多憎生なんて四字熟語を使ったのは生まれてはじめてだが、「愛や恩も度を越すと、かえって憎しみを受けるようになる」というたとえだそうだ。

 わはは。私のことをよく知っている人がみたら爆笑すると思う。

「それな。それそれ、むこがわさんのよく陥るパターン」

と笑われそうだ。


 そういうわけで、喧嘩みたいになることもあるし、距離を置かないとダメで、ぎくしゃくすることもあるし、モノを投げつけられたり、噛みつかれたり、そりゃあいろんなことがあったというものだ。

(ちなみに、誤解されては困るが、むこがわさんは喧嘩をふっかけたり、モノを投げつけたりはしない。一応対人援助者なので、ほぼ感情を乱されたりはしないのだ。いろんな事件を起こしてもいいよ〜と、いつも受け止める側である)


 でも結局、こういったバトルが起きる理由も、最近その構造が自分で把握できるようになってきた。

 たぶん、これは「親子関係の代理行為」をやっているのである。


 支援を必要とする子は、たいてい親子関係がうまくいっていない。場合によっては無関心やネグレクトもあるだろうし、お互いに心をうまく通じ合えない場合もある。虐待要素もあるだろう。

 そうした課題をずっと長年抱えながら、むこがわさんという代理親を通じて、その子たちは心を整理しているのだとわかってきた。

 直接的に「親子」という代理関係を結ぶのが、感覚的に合わない場合は「代理家族」でもいい。

 家族を経ないといけないということは、つまり、どんな形であっても「無償の愛をちゃんと示す」ということを一回はやらないと、治まらないような気がしている。


 先日も、とある宗教2世の子に

「むこがわさんは本当に対人援助のプロですね」

みたいなことを言われた。

 そうかね?こんなことくらいはいつもやってるけどな、と思いつつ。その子にとっては、

「ちゃんと、向き合ってくれたのは、きっとあなたが初めてです」

とのこと。

 正直なことを言えば、その子とはtwitterで話をしただけで、「うん、うん」とじっくり全部話を聞いてあげて、嫌な部分も、その子のいい部分も、全部理解する、受け止める、ということを言っただけである。

 すごく平たく言えば、「ただ、ちゃんと聞くよ」という姿勢を伝えただけなのだ。

 (これはカウンセリングで「傾聴」という初歩の初歩みたいなものだ。臨床心理をかじってたら、それくらいできないほうがマズいくらいのものだ)


 でも面白い(失礼)のはここからで、いったん「受け止める・受け止められる」という関係がちゃんとできると、その子のベクトルは

「自分で、自分の理想とする方向に、自立しよう、やってみよう」

という気持ちに切り替わってゆく。

 もちろん、一進一退したり、向きに迷いが生じたりするのだけれど、基本的にはちゃんと「自立に向けて歩き出そうとする」ことがこっちにもわかる。

 それが私にとっては一番の嬉しい瞬間かもしれない。


 だれかへの支援の際に、もちろん

◆ 傾聴・受け止める


というところから始まるのだけれど、ちょっとだけ注意点があって、


◆ 関係が深まると牙を剥く・剥かれる


という事態が、ほぼ確実に起きると言える。これは対人援助のプロなら誰でも知っている。

 この段階で支援側の人間がやられたり闇落ちすることが多いのだが、その先を知っていれば、怖くはない。

「モノ投げつけてもいいよ、噛みついてもいいよ。全部うけとめるから」

と、ある人に言ったことがあるが、それくらいの覚悟は必要だ。


 そこから先に

◆ ほんとうに安心する。信頼する


ということが起きて、


◆ 自立に向かって、本人が希望を持つ


という段階へと進んでゆく。

 この全部がワンセットなので、途中で投げ出したり、途中でやめたら全部パーである。その子は、

「やっぱり他人は信頼できない」

と最初よりももっと酷い人間不信に陥るだろう。


 ただし、傾聴し受け止めるとは言っても、「その子の奴隷になる」という意味ではない。当然「自分の軸、こちらの軸」がしっかりあって、その上で「無償の愛」を示すということが大事だ。

 彼・彼女たちはすぐに見抜く。「この人は自分の軸をちゃんと持って、モノを言っているのか、それとも迎合しているだけか」を。

 彼らはいわば、人間を恨んで「本能だけで生きている」ような、尖ったセンシティブな世界で生きてきたから、こちらが思っている以上に「支援者自身の人となりを見抜く」ことには長けているのだろう。

 自分の軸を出し合う、見せ合うようになってくると「二人の間の差異」もちゃんとはっきり見えてくる。それはそれで全然OKだ。

 その子にとっての「自分」とは何かの輪郭がはっきりしてくる作業だからだ。それは親子間の「それぞれの人間としての違い」が明確になってくる時期とも重なる。思春期を経ての独立のプロセスの再現なのだろう。

 そうして最後に、その子たちの「潜在的な力」「潜在的な自立力」を見せてくれる瞬間は、素晴らしい。どんな映画や小説や、どんなドラマよりも人間らしい輝きを見せてくれる瞬間だからだ。

 それが本当に愛おしくて、愛らしくて、心から「がんばれー」という気持ちになる。

 それを教えてくれて、ありがとう。

 

 だから私はいつも希望を持っている。宗教2世はどんなにつらい目にあっていても、必ず幸せになれる。それはもう、確信だ。


(つづく)






 
  


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