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シン・弱者論1 〜はじめに〜


 実は以前にも『弱者とは何か』というテーマでひとまとまりの記事を書いたことがあるのだが、この「弱者とはいったい何なのか」ということは、最近の私のライフワークテーマになりつつある。

https://note.com/mukogawa_sanpo/m/m2dafcdea220d


 どうも近年、日本だけではなく世界的に見て「弱者とは何か」という定義が、これまでのような考え方では対応できなくなっているように感じる。なので、少なくともこれからの時代は「弱者とは何か」ということをブラッシュアップして「シン・弱者」として定義しなおさなくてはならないのではないか?と思っているのだ。


 なんのこっちゃわけわからん、と思う方もいるかもしれないが、こんな例はどうだろう。たとえば、欧米ではこれまで「黒人」や「移民」など、分りやすくカテゴライズされた「弱者」がいた。ところが、先進国での経済状況が大きく変動して、意外なことにこれまで「強者」と思われてきた「白人男性」が、社会で取り残されるような事態がたくさん起きてしまい、そうした機運がトランプ政権を生んだように、

「単なる弱者、単なる強者では分類できない事態」

が起きているのが現代社会なのである。


 これまでの「弱者論」は、立ち位置、立場に注目するものがその大半だったように思う。たとえば「こどもや女性」は弱者である。たとえば、「老人」は弱者である。

 そうした立場に着目して「弱者を救おう」とすれば、「こどもや女性を優遇する」「老人を優遇する」などの施策を取ることになるが、実際には日本などでは「老人優遇によって若者が経済的に疲弊する」ようなことが起きている。(年金などは、若者が老人の手当てをしているから、よけいにそうだ)

 「老人は弱者」とは画一的に言えなくなっているのだ。

 他にも、一昔前までは「シングルマザー」の家庭には経済的な優遇があったが、いやいや「シングルファーザー」にも適用すべきだろう、なんてのは同じような理屈である。「女性は弱者」という画一的なスタンスには、問題がある、ということである。

 

 立ち位置や立場を主軸とした「弱者論」は、これまでに充分議論されている。「こども」「女性」「老人」はすでに挙げたし、「障害者」「失業者」「ホームレス」「家を失った人」「独身者」「離別者」など、いくらでも立場的弱者を検討することはできる。

 しかし、たとえば少年法に守られた範囲で凶悪犯罪を犯す若年がいたとき、弱者論はものすごく揺らぐ。こども同士のいじめが起きたとき「加害者にも未来がある」と言った校長が北の国にいるらしいが、その時いじめられた真の弱者は存在を軽んじられているわけだ。

 家賃を滞納している無職の人間がいるとき、大家はお金をもらえず困っている。どちらが真の弱者かは、あなたには正しく答えることができるだろうか。

 私はサラリーマンだが、ある顧客が売掛金を数百万円払わなかったので、裁判になった。裁判実務を私が担当したのだが、裁判官は「会社=強者、個人事業主(顧客)=弱者」と見立てた。なので、分割で払うにせよ、猶予を与えるにせよ、弱者に有利な方に話を持ってゆくのだ。

 ところが、その顧客がお金を払ってくれないので、うちの会社の支払いはカツカツになり、私のボーナスはゼロになる。顧客は好き勝手した結果、「今だ一銭も払っていない」ので実害はない。私にはボーナスがない。いったいどこに真の弱者がいるかは、明白だろう。


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 こうしたことを整理してゆくと、「弱者には2つの意味合いがある」ことが明らかになってくる。

 ひとつは、これまでどおりの「立場的弱者・立場としての弱者」だ。これは「カテゴリとしての弱者」と言い換えても良いだろう。

 もうひとつは、「実態としての弱者、状況としての弱者」だ。これは、「それによって困っている真の弱者」という意味になる。


 ここで、はっきりしておきたいのは、「立場的弱者」と「実質的弱者」は必ずしも一致しないことと、まったく逆転することがある、ということである。

 お金がなく、家賃を滞納している「立場的弱者」は、お金を支払わないという暴力的行為を行っている。それは「強い行為」と言い換えてもいいだろう。「払わねえぞ」「払えねえぞ」という暴力を用いているのは、「立場的弱者」である。

 家賃を滞納されている大家は、「実質的弱者」になってしまう。そのマンションをローンで購入しているのであれば、あるいは借金でアパートを立てているのであれば、彼は「取り立てを免れないが、お金は入ってこない」という苦しい状況になるからだ。それによって破産することだって、ありうるから、「払わない」という暴力性に打ちのめされていることになる。


 ここで、さらなるポイントを挙げて置こう。

 弱者には暴力性があり、強者に弱みがある場合がある。

ということも忘れてはいけない。この強弱の「真逆性」はそこかしこで問題になっている。


 たとえば、精神疾患を抱えた人が犯罪を犯すとしよう。その犯罪者は、弱者としての立場を持っているから、「無罪あるいは減刑」という処遇になったとする。これを、被害者から見れば、単なる「やられ損」以外の何ものでもないから、「精神疾患犯罪者には暴力性が内包されていた」ということになる。恐ろしいことである。被害弁済が一切なされないという恐怖しかない。

 ある地域で災害が起こって、家々が倒壊したとしよう。Aさんは賃貸住宅を借りていたので、やむなく引越しをした。Bさんは自宅を所有していたので、引越しすることもできず、途方に暮れた。Aさんは持たざる者なので弱者だが、自由に動く権利を持っていたことがわかる。Bさんは自宅を所有していた「持てる者」(強者)だったが、それがすなわち弱点となったこともわかる。

 現代の論理では、単純に「自己責任」として放り出すわけだが、それは「立場としての弱者」かどうかしか見ていないからそうなるわけだ。


 こんな風に考えれば考えるほど、「弱者とは何か」「強者とは何か」というテーマは奥深いことがわかってくるし、また「立場的弱者」の視点は、すでに適切ではないことも見えてくる。

 そこで「真の意味での弱者救済とは何なのか」を見据えて、この論考を進めてゆきたい。


(つづく)


 


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