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見られたい。見られたい。見られたい。

 承認欲求。
 それは誰しもの心にある抑えがたい欲望。欲望の強さは人によりけりだが、僕のそれは極めて貪欲だった。
 学生の頃。僕は先生や周囲の生徒に可愛がられたいという一心で、なりふり構わず色んな人に喋りかけた。昼食時や授業中など、沈黙が続くときは自ら話題を出し、会話の流れを無理矢理設けた。今思えば、典型的な問題児だったが、自重することすらもできない僕を、先生たちは苦虫を嚙み潰しながらも受け入れてくれた。
 そして周囲の生徒も、僕を「友達」と認識してくれる人が多かった。他人や社会のペースに則らない僕を、何故か寛大な心で受け入れてくれた。お前は面白い奴だ、とすら言ってくれた人もいた。
 他人の本心は計り知れない。本当は僕の事を嫌っていたかもしれないし、時には殺意の衝動すら奔ったこともあるかもしれない。それでも、僕の前では笑顔で接してくれた。
 他人にチヤホヤされる。それだけで僕の承認欲求は満足に解消されて、脳の報酬系が一気に解放される。気持ちいい。心地いい。
 
 こういう振る舞いを続けていると、次第に言葉の歯止めがかからなくなっていく。僕の話を皆に聞いてもらうためには、話題の面白さが肝心だった。だから僕は、社会や他者の批判、時には身内の不幸すらもネタにして、人の関心を無理矢理にでも引こうとした。
 話している間は、妙に興奮して、早口ヲタクの様な口調になる。(※今思えば、これは自信の無さの表れだろうか)一方的なマシンガントーク。それが終わると、どことない後悔の念が僕の奥深くに根付いて、夜独りのときにそれが徐々に心を締め上げていく。
 承認欲求を満たすために、大切なナニカを失う感覚。自分にとって大事な出来事を、安く吐き捨てたことに対する自省。まるで依存症だ。

 そんな悪癖を、僕は止めようと決意した。
 こういうことは、中々止めようにも止められない印象だが、僕にとっては意外にも容易かった。
 簡単な話だ。スマホをベッドに放り投げ、LINEを触らない。他人のメッセージだけを目に通し、何か自分の話題を作ろうと思っても、寸でのところで思いを断ち切る。これだけでも十分な効果があった。
 そういう暮らしを続けていると、改めていかに僕が承認欲求の奴隷であったかを思い知らされる。長く生きていた中で、客観的に僕がどう見えていたのかを実感したとき、僕の人生は黒歴史そのものに思えた。辛い。恥ずかしい。気の狂ったピエロが、場も弁えずに喋り続ける異様な光景。それが僕であると認識したとき、自己のアイデンティティやら自信というのは、一瞬にして消し飛んでいく。

 SNSを通じて、『屍鬼骸』なんてハンドルネームをつけて、徒然なるままに投稿する今の僕。Bioには「クリエイター志望の~」なんてこじゃれた事を書いているが、その本性はこんなにも浅はかで、虚無な人間。
 人より何かできるわけでもなく、経験があるわけでもない。そんな僕でもチヤホヤされたかったから、舌先三寸で何もない自分を着飾って、それを周囲に見せつけていたんだ。

 「僕は、何をする人になりたくて、どう評価されたいの?」
本当に大切な事は、こういう問いだと思う。生涯を通じて悩むであろう、己の理想像。そこに刹那的な欲求が深く介在したとき、初志貫徹なんてものは決して成り立ちはしない。
 目先の快楽に溺れて、道を見失う。気づいたときには振り出しに立っていて、さっきまでの自分を呪いだす。この習慣病こそが依存の本質なのだ。

 僕は今も、心の奥底に煮えたぎる承認欲求を抑えながら生きている。自分のしたい事、守りたいモノ。それを大切にして前進したい。
 積雪の中歩くのは困難だが、振り向けば自分がどこまで歩いてきたかを思い出せる。足跡はやがて降り積もる雪によって姿を消すが、今歩いた直前までの跡は残っている。それを見て、何者なのかを再認識すれば、決して迷いはしない。

 だけど……正直辛い。
 独りは辛い。
 努力が実を結ぶか不安で仕方がない。
 早く僕を見てほしい。
 今ここに生きる僕の姿を知ってほしい。
 そして忘れないで――どうか歴史の狭間に僕を置き去りにしないように――覚えていてほしい。

 この本心を押し殺してまで、生きる価値はあるのだろうか? 僕の内なる矛盾は何も答えてはくれない。


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