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三島由紀夫「金閣寺」を読んで

日本人で良かった。そう思った。言葉選びというよりも言葉運びがここまで秀逸な作家には出会ったことはなかった。三島が天才と言われる所以を本当に感じた。僕が三島由紀夫と出会ったのは、見城徹の「読書という荒野」という本だった。もちろん三島由紀夫という名前は知っていたが、クーデターを起こして自殺していることは全く知らなかった。自分の思想に殉じる覚悟や美意識を紹介していたその本で僕は三島由紀夫に魅せられた。普通だったら次のステップとして三島由紀夫の本を読むだろう。でもなぜか手が出せなかった。大義も志も持っていない自分が三島作品に直接触れれば、その圧倒的な光のもとに自己嫌悪に陥るような感じがしたのだと思う。その後、興味がありながらも作品には触れないという時間が長らく続いた。しかし、その間もYouTubeで三島由紀夫が話している映像を見ることはあった。東大生との論争や市ヶ谷駐屯地での決死の演説など魂で会話をする豪胆さと繊細な言葉運びを持ち合わせている三島にますます引き込まれた。ある動画で、三島は「体験を経験たらしめる力が重要である」という発言をしていた。それこそが彼を小説家たらしめている力だという。その発言に触発された僕は、自分体験の経験化を行いまとめたものを本として出版した。それが去年のことである。そして、今年のお正月についに転機が訪れた。コロナ以前ぶりに死んだ祖父の家に親戚一同が会した。その祖父は本のための家を建てるほどの読書家で無数の本がある。社会の教員だったこともあり、そのほとんどは歴史本なのだが、僕は何気なく見ていた祖父の本棚の中に三島由紀夫を見つけた。「金閣寺」三島の代表作である。ついにこの時が来たかと思った。僕はそのシミだらけで黄ばんだ本のススを払って手に取った。もう逃げることはできない。三島と、自己と正面から向き合わなければならないんだ。僕はこの瞬間を逃げていたようで心のどこかでは待っていたような気がした。普段の僕はどこでも気にせず本を読む。でも金閣寺は何となく1人の静かな場所・時間で読みたくて、まだ街が起きていない早朝に自分の部屋のカーテンすら開けず読み進めた。一杯のコーヒーと共に。この作品から僕が感じたものを端的に表現すると「美・死・闇」だ。これらは独立した印象ではなく、むしろ相互に強く絡み合っている。目に見えないそれらの観念を僕に見せてくれた。僕は特に柏木の「この世を変貌させるものは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。認知だけが、世界を普遍のまま、そのままの状態で、変貌させるんだ。認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ。」という発言がとりわけ重要だと思った。物語を通して、溝口と美・死・闇の関係は流転していく。それに伴い世界は変わらないのに、美・死・闇という観念のフィルターを通した世界の認知は変わっていくのだ。小説の中で美とは、刹那的なものと悠久的なもののどちらもありうると書かれている。刹那的なもの例が音楽であり、溝口は尺八を演奏しながら響いては消えるその切なさに生を連想する。刹那的なものの究極がが生だとすると悠久的なもののの究極は死である。室町以来時の試練を耐えてきた金閣に対して溝口は始めその華美な見た目とは裏腹に不気味さを覚えるのである。自分の認知の中の崇高な金閣と、悠久的で死を連想させる現実の金閣のギャップは水と油のように混じり合わなかったからである。しかし、柏木が触媒となりそのギャップが乳化していく。溝口は現実の金閣に認知の金閣を重ねてみることができるようになっていく。溝口は、健常で生き生きした人間に比べると吃りという醜さを持っており、人間の中では生からは遠くかといってしでもない中庸さを抱えている。それまで吃りとという醜さを持っていた自分と現実の金閣に親近感を感じていたが、現実の金閣が認知の金閣に寄っていくにつれて徐々に敵対していく煩わしいものとなる。つまり、金閣が死から生へ蘇るのである。すると、今度は蘇った金閣を殺したいという心の闇が芽生える。その闇というのも思い悩んだ末に出てくる合理的なものではなく、ある朗らかな日常の中でふと湧いてくる言いようのない無作為なものとして描写されていた。死があるからこそ生があり、心に闇があるからこそ聖があるという人間の両面性をあえて闇の方を際立たせて描きだしているなどと考えた。

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