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ティルドラス公は本日も多忙⑤ 嵐の年、国滅ぶ時(1)

第一章 ケーシを後に(その1)

 十月に入り、この地の早い秋の深まりが肌に感じられるようになる中でケーシの日々が終わろうとしていた。
 想いは叶わず、夢は破れ、できるなら誰にも会わず独り一室に籠もって膝でも抱えていたい気持ちなのだが、それすら許されないのが今のティルドラスの立場だった。
 ミレニアとの結婚が成就しようがするまいが、所用が終われば急ぎ帰国せねばならない。国元から送られてきたアンティルの手紙によれば、最近のハッシバル家ではサフィア一派の横暴が猖獗しょうけつを極めており、それに対する民衆の不満も高まって社会全体に不穏な空気が漂い始めているという。
 その帰国もすぐに許されるわけではない。王へのいとま乞い、朝廷各所への挨拶……。その合間に、ケーシ滞在中に自分で耕し続けて愛着もそれなりに湧いてきた籍田せきでんを訪れ、最後の手入れをしながら片付けを済ませる。自分が帰国したあとは大司農府だいしのうふで新たに任命されるじょう(次官)が管理を引き継ぐことになるのだろうが、最初に来た時のこのそのさびれた様子を思い出すと、果たしてどの程度心を込めて手入れをしてくれるのか疑わしい。
 ルシルヴィーネ王女とはあれ以来一度も顔を合わせていない。悪気あってのことではないとはいえ、結果的に彼女の心を傷つけてしまったことを思うと、少々気がとがめる。
 そのルシルヴィーネの侍女で夫と共に勤王の士たちに殺されたザネア=ハイマーには幼い二人の子がおり、ティルドラスは彼らの面倒を親王家で見てもらえるよう姉のエウロナに頼む。「彼らの両親は私のために死んだようなものです。少なくとも成人するまでは衣食に困らないようにしてやって下さい。彼らの養育に十分なだけの金額も置いていきます。」
 「分かってる。この屋敷で、子供たちの遊び相手と他の使用人の手伝いでもしてもらいながら暮らせるようにするから心配しないで。」エウロナは頷く。
 こうして親王家の屋敷に引き取られた幼い兄妹はやがて数奇な運命をたどって史書にも名を残すこととなった。しかしそれは物語の本筋から外れるのでここでは詳しく述べずにおく。
 ルシルヴィーネといえば、公子が彼女と婚約することとなったオーモール家から、二人の人物がイスラハンに伴われてティルドラスを訪れたのもこの頃である。
 一人は、オーモール家の家臣ではないものの礼法についての顧問のような立場で侯爵家に出入りしているレリューギンだった。「お目にかかれて光栄にございます。伯爵の高徳は同門のジェイクソンよりかねがね聞かされております。」来客の間に通され、初対面の挨拶をティルドラスと交わしながらレリューギンは言う。
 「ジェイクソン先生のご友人でしたか。」彼と同門ということは当然マウアーとも同門で、そちらからは殺意さえこもった自分の悪口も聞かされているはずである。実際、先日起きたティルドラスへの襲撃でも、背後にマウアーの弟子か、少なくともマウアーの主張にかぶれた者たちの存在が囁かれている。多少警戒しながらも取りあえず礼儀正しく挨拶を返すティルドラス。
 もう一人は名をヨグ=リディウスといい、オーモール家の尚書令しょうしょれいで侯爵・ヒッサーフの腹心だという。痩せた貧弱な体つきに血色の悪い顔色、尖った鼻に小さな眼をした小柄な男で、一見礼儀正しく物腰の柔らかい人物だが、その小さな眼の奥には何か陰険さと冷酷さ、そして狡猾さを感じさせる暗い光が感じられ、残念ながら良い印象は持てなかった。
 「本日は、先日開かれました小宴の折、伯爵から王への取りなしをいただいたことのお礼に参りました。」ティルドラスに対して丁寧に拝礼をしたあと、リディウスは口を開く。「おかげをもちましてあるじ・ヒッサーフへの王のご勘気かんきも解け、ケーシへの参朝と朝廷への出仕が許され、さらにルシルヴィーネ王女と公子・ウラストスの縁談まで整う運びとなりました。これもひとえに伯爵のご尽力のたまもの。主に代わり厚くお礼を申し上げます。主・ヒッサーフは近く国都・アシルクトンを発って一月ほどでケーシに到着する予定でございますので、その際に改めてご挨拶に伺いたいと存じます。」
 「残念ながら私も数日中には参朝を終えて帰国の途につかねばならず、侯爵のご到着までこの地に留まることができませぬ。そもそも王のご勘気が解けたのはそちらにおられるイスラハンどのの忠心に王が感じ入られたためで、私はさほどのことはしておりませぬ。お気遣いは無用と侯爵にもお伝えください。」
 「これはまた残念なこと。主・ヒッサーフは以前から伯爵の仁徳と高潔を聞き及んでおりまして、是非ともお目にかかりたいと申しておりましたものを。」ティルドラスの答えに大仰にため息をついてみせるリディウス。「時に、伯爵は今の世の有様、朝廷の実情をどうお考えでしょう。」
 「二百年の戦乱の世はいまだに終わる気配がなく、民の苦しみが続くことには私も大いに心を痛めております。何とか世に平安をもたらし民の苦しみを救うことができぬか、常々思い悩んでいるところです。」ティルドラスは言った。
 「おお、それこそ我が主・ヒッサーフのこころざすところ。やはり伯爵は、我が主の見込んだ通りの方でございました。」わざとらしいほどの大げさな調子でリディウスは声を上げる。
 「ヒッサーフ侯爵は常々、武ではなく徳を重んじることで天下を平穏ならしめることを考えておられまして、おそらく伯爵のお考えとも通じる部分は多いかと存じます。いずれヒッサーフ侯爵がその志を天下にべられる日が来れば、伯爵も必ずや、その徳と才を天下にあらわすことができましょう」傍らからレリューギンも口を挟む。
 彼らが辞去したあと、ティルドラスは何やら独り難しい顔で考え込む。「どう見られました?」面会に立ち会っていたホーシギンが声をかける。
 「深入りせぬ方が良さそうだ。」かぶりを振りながらティルドラスは言った。「取りなしへの礼はあくまでも口実で、何かのたくらみが背後にあって、私をそれに引き込もうとしているのではないか――、そんな気配を感じた。以前ヘルツェンコどのから忠告を受けたが、なるほど、その通りなのかもしれぬ。」
 「ほう。」彼の言葉に、いつもの探るような目になるホーシギン。
 諸侯同士の付き合いではもう一つの出来事があった。フェジーラが男子を出産し、ティルドラスがその名付け親を引き受けることになったのである。夫のユンギルが自ら親王家を訪れての依頼だった。
 「私はよろしいのですが……、トッツガー家へのはばかりがあるのでは?」頼まれたティルドラスは少し驚く。属国であるサンノーチス家が、どちらかといえば敵対関係にあるハッシバル家の当主に子爵家の世嗣せいしとなる子供の名付け親を頼むなど、当然トッツガー家としては面白くないはずである。
 「お願いできる方が伯爵しかおられぬのです。」とユンギル。最初は滞在先のテュニスタン親王に話を持ちかけたもののすげなく断られ、気位の高い宮廷の貴族たちは辺境の子爵家など見下して相手にせず、ティルドラス以外に頼める相手がいないのだという。「それに――」ユンギルは少し声を潜めて言う。「本心を申しますと、妻も私も、伯爵のような心優しい方に将来の後ろ盾となっていただくのが生まれてきた子にとっても良いのではないかと考えております。」
 「私も名付け親となるのは初めてですが、そこまで信頼していただけるのであれば喜んでお引き受けいたしましょう。」ティルドラスは頷く。
 翌日、ティルドラスはフェジーラ夫妻の滞在先であるテュニスタン親王の屋敷を訪れ、ゆりかごの中の赤ん坊を前におごそかに命名の言葉を述べる。「嬰児みどりごよ、この世に新たに生を受けし者よ。今、なんじにエグナンドの名を与える。汝の上に天の加護があり、その名と共に永くあらんことを。」
 立会人として同席していたトッツガー家から朝廷への使者――軍師の一人であるティルウィックだった――は、思った通り終始渋い表情でいたものの、それでも邪魔立てするような態度は取らず、命名の儀式は滞りなく終わる。こうしてティルドラスの名付け子となったエグナンド=サンノーチスも後に史書に名を残すことになるのだが、それもまた遠い未来の話である。

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