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ティルドラス公は本日も多忙⑤ 嵐の年、国滅ぶ時(17)

第四章 ヒルエンラムの小さな事件(その2)

 ミレニアを連れて行在所を抜け出し、二人でハッシバル領を目指すことも考えた。だが、道もろくに知らない女二人連れが案内も護衛もなしに闇雲やみくもにハッシバル領に向かったところで、無事にティルドラスのもとにたどり着けるとは思えない。かといって、自分たちに協力してくれるような人間は周囲に一人として見当たらない。
 良い考えが浮かばぬまま、ディミティラは荷物をまとめ、それを抱えて行在所の敷地の中にある別の建物へと向かう。
 同じ行在所といっても大国・トッツガー家の、それも一族の聖地であるヒルエンラムのそれは、キクラスザールのハッシバル家の行在所のように敷地の中に建物が一つだけというものではなく、広い敷地内にいくつもの建物が建ち並ぶ立派なものである。その中には使用人たちが主人の目に触れない場所で、武具・身の回り品の手入れや修理、洗濯、衣服のつくろいといった雑用を行う建物もある。彼女が向かったのもその雑用小屋だった。
 下働きの者たちが集まる雑用小屋は、身分の高い人間たちが暮らす一角とは全く異なる雰囲気の場所である。飾り一つない殺風景な土間に洗濯桶や物干し場、衣類に火熨斗ひのし(アイロン)をかけるための台、荒削りの板を渡した作業用の机などが雑然と並び、そこで使用人たちがそれぞれの仕事に追われながら、その合間にあれやこれやの噂話や口喧嘩に花を咲かすのだった。
 作業台の前に腰掛けてミレニアの衣類の繕いをするうち、ふと、ディミティラは近くで交わされる会話に耳をそばだてる。
 ――聞いたか。港の近くにある例の空き屋敷に、アルイズン家の遺臣が仲間を引き連れて潜んでいるという話だぞ。――
 ――なんでもアルイズン家の家中でその名を知られた人物とのことだ。昔アルイズン家に下僕として仕えていた者が偶然街中で目にして跡をつけ、居場所を突き止めて注進したらしい。――
 ――アルイズン家か。マッシムー家への恨みを晴らし主家を再興しようと奔走している遺臣たちが未だにいるそうだな。我が国にとっては少々目障りだが。――
 ――公爵は今日は狩りでお帰りが遅くなる。お戻りになってからご指示を仰ぐことになろうが、事によると捕り物になるかもしれんな。――
 そんな話があるのか。さほど気にも留めずに繕い物を続けかけたディミティラだったが、次の瞬間手を止め、大きく目を見開く。あるいはこれが、あるいはこれが!
 持ってきた荷物を慌ただしくまとめ、もと来た建物へと飛んで帰ると、ディミティラはそのままミレニアのもとへと馳せ参じる。「ミレニアさま!」周囲を見回して誰もいないことを確認しながら、彼女はミレニアに囁く。「お願いがございます。しばらく外出させていただきますが、私に外での用事を申しつけたということにして下さいませぬか。子細は申し上げられませぬが、あるいはミレニアさまの将来を左右することかもしれませぬ。」
 呆気に取られるミレニアだったが、彼女の勢いに気圧けおされたかのように頷いた。
 「ありがとうございます。では。」一言そう言って、ディミティラは、来たときと同様にばたばたと部屋を飛び出していく。
 一方こちらは、雑用小屋での噂話にあった港近くの廃屋である。もとはかなり裕福な貿易商人の自宅だったらしいが、役人への贈賄と禁制品を扱った罪で持ち主の商人が死罪となり、家族は財産没収のうえ国外追放の処分を受けたという。以来、幽霊が出るという噂などもあって家を買おうとする者もなく、荒れ放題のまま放置されていた。屋根はあちこち破れて雨風が吹き込み、床も所々抜けて歩くのにも気をつけねばならない。
 そんな家でも冬空の下での野宿よりはましである。幽霊の噂にしても、死者より生きている人間の方を恐れねばならない身の上としては、むしろ人が寄りつかず好都合と言えなくもない。
 ケンプクトンを後にしたシクハノスたちは、手近なタンネビッツ川の支流に出てそこから川船を乗り継ぎ、一月半ほどの旅の末ヒルエンラムに到着して数日前からこの廃屋で寝泊まりしていた。互いの間に微妙な緊張感は未だに漂っているものの、共通の目的のもと旅を続ける中である種の連帯感のようなものも生まれ、協力関係はそれなりにうまく行っている。特にオクタヴィアはケロスとの出会いを何やら運命の巡り合わせのように感じているのか、何かといえば彼の傍らで過ごしたがり、周囲の者たちを困惑させていた。ケロスの方もまんざらでもないようで、こちらもディディアックを戸惑わせているものの(マーシャはむしろ大喜びだった)、そうした二人の様子が二つの勢力をうまくつなぎ止める役割を果たしているのも事実だった。
 「ハッシバル領へと向かう船だが、今日も見つからないんだ。」その日も一日港を回り、目的地へと向かう船を探していたシクハノスが仲間たちに報告する。
 「それでも、金さえ出せば乗ることができる船が月に二、三隻は出るそうだ。ここは機会を待つしかなかろう。」彼と行動を共にしていたディディアックが言葉を継ぐ。
 「できれば、マクドゥマルより、ネビルクトンに近いエンシラールの港に向かう船を。」傍らからケロスが口を挟んだ。
 「選り好みなどしてはおれぬわ。まずはハッシバル領までたどり着くのが先決――、何だ?」シクハノスの同志の一人が言いかけて口をつぐむ。すぐ外、破れ塀のむこうから、何かの笛を甲高く吹き鳴らす音が二度、三度と鳴り響いたのである。
 「……様子を見てくる。」傍らに置かれた剣を手に取り、シクハノスは立ち上がる。「貴公らはいつでも逃げられるよう荷をまとめておけ。」
 彼が外に出たときには、笛の音はもう聞こえず、代わりに一通の投げ文が枯れ草の間に転がっていた。
 「?」周囲を見回しながら投げ文を拾い上げて開くシクハノス。そこにはこう書かれていた。
 ――アルイズン家の方々へ。捕り手が参ります。すぐにお逃げください。お話ししたいことがございます。三日後の日暮れ時に街の西の外れにある廃寺でお待ちしております。――
 「これは――!」息を呑むシクハノス。
 こうしてその日の日没時、行在所あんざいしょからの命令を受けて代官所の手の者が様子を確かめにやって来たときには、廃屋は既にもぬけの殻だった。捕り手がやって来ることを察して逃げ出したのか、それとも情報自体が誤りで最初から怪しい者などいなかったのか……。どちらとも判断が付かない中で役人たちは引き上げていく。

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