ジョン・ウィックのレビューから見る、殺人の捉え方

はじめに

 僕は下の記事に書いたように、映画の中の殺人シーンが大好きだ。

 ただし、殺人であればなんでも好きなのかと言われると全然そんなことはない。このあたりの好みについて、おそらく多くの人々と明確に差異があるように思う。殺人の好みの違いを手がかりに、その背景にある意識について考えてみよう。

フィクションの中の好きな殺人/嫌いな殺人

 僕は「正当化されない殺人」が好きだ。孤独な殺人者が、大した理由もなくただ自分を慰めるためだけに行う殺人が良い。それは安易に同情されるような理由も権力の後ろ盾も持たない究極の反社会的行為である。そこに社会秩序からの自由という夢を見るのだ。「ハウス・ジャック・ビルト」や「アングスト」などはそういった意味で最高の作品である。

 一方で「正当化された殺人」はあまり好きではない。「復讐のため」とか「正義のため」とか「組織のため」みたいな分かりやすい理由が用意されていて、鑑賞者が簡単に共感できるように演出されているものだ。前もどこかで例に挙げたが、「復讐」で殺人を正当化する映画としてはやはり「ジョン・ウィック」あたりが手頃な例だろう。「正義のため」の例はいくらでもある。所謂ハリウッドのアクション映画やヒーロー映画などだ。要は主人公が悪人を殺す映画である。「組織のため」は戦争映画やヤクザ・マフィア映画が該当する。これらはすべて強大な組織の権力に正当化された殺人を描いている。

 この中で一番嫌いなのは「組織のため」シリーズだ。権力組織に正当化された殺人ほど恐ろしくて醜悪なものは無い。それは、殺される側だけでなく殺す側さえも自由と尊厳を奪われた地獄絵図である。残り2つはそこまで嫌いというわけでもなく、ただ陳腐だなあと思うくらいだ。ハンニバル・レクターにカリスマ性を感じ、ジグソウに全く感じないのはこのあたりが関係している。SAWは「命の大切さを感じさせるため」とかいうしょうもない理由が語られた瞬間激萎えしてしまった。あまりにも陳腐である。ただ食いたいから食うレクター博士を見習って欲しいものだ。

「ジョン・ウィック」レビューの争点

 ジョン・ウィックは「大切なものを奪われたから」という極めて分かりやすい理屈で大量殺人を正当化している映画である。あの映画は本当に次々と人が死ぬ。人数で言ったらハウス・ジャック・ビルトなんて足元にも及ばない。スプラッタ映画が一部の愛好家にひっそりと愛されるだけに留まっているのに、こんな大量殺人映画がそこそこヒットして続編まで作られているなんて、なかなか不思議なことのように思える。ものすごく沢山の人々が殺人の様子を観て、「かっこいい!」とか「爽快!」とか言って楽しんでいるのだ。みんな殺人が大好きじゃないか。

 そんな殺人狂たちにとって、重要なのはどうやら「殺人を正当化する理由の完全さ」であるようだ。Amazonで「ジョン・ウィック」のレビューを色々読んでみると、「犬と車を奪われたことへの復讐が殺人の理由として正当か」ということが争点のひとつとなっている。まあそもそも話が面白くないとかいうのも結構あるけどそれは置いておこう。一方が「犬と車の復讐で殺人はダメでしょ」と言えば、もう一方は「それらは亡き妻の形見だからオッケー」と答える。どちらが正しいのだろうか。当然のことながら、法治国家としてはどちらも間違いである。殺人は犯罪であり、正当防衛として認められでもしない限り正当化されることはない。この問答は、「納得できる理由があれば人を殺しても良い」という滅茶苦茶な考えを前提に成り立っている点で極めて異常なのである。これは一体どう理解すればいいのか。

死刑制度との関係

 僕はどうあっても許されない反社会的行為として映画の中の殺人を愛している。しかし多くの大衆娯楽映画では、何らかの正当性を付与された殺人が愛好されている。戦時中でもなければ、正当な殺人として真っ先に思い浮かぶのは国家による殺人としての死刑である。先のジョン・ウィックの正当性に関する問答は、あたかも死刑が妥当かどうか判断する裁判員たちの議論のようだ。そもそも「正当な理由があれば人を殺しても良い」という思想は死刑制度の前提条件であり、逆に言えば死刑制度の存在が「正当な理由があれば人を殺しても良い」ことの根拠となる。彼らは、殺人に納得のいく理由がある場合、それを死刑の代行のように捉えることで正当化しているのではないだろうか。刑罰は正当でなければならない。だからこそ、「犬の復讐は殺人の理由として十分か」ということが問題になるのだ。

 僕は秩序の外にある行為としての殺人に憧れ、彼らは秩序維持のための装置として殺人を利用する。僕らの趣味の合わなさの根源はここにある。それにしても「自分が納得できるかどうか」を殺人の正当性の根拠にするとは、なんという傲慢さだろう。これはなにもフィクションに限った話ではない。ニュースサイトで殺人事件のページを見れば、好き勝手に怒り散らして死刑宣告をする人々のコメントをいくらでも見ることができる。「人を殺すなんて許せない!殺せ!」というわけだ。殺人を憎みながら簡単に殺人を正当化する矛盾。秩序の大切さを説きながらも、主張の内容は残虐で無秩序である。まったくどちらが殺人愛好家か分かったものではない。

人を殺してもよい国

 とはいえ、この狂気の源泉は個人ではない。先にも述べたように、死刑制度の存在自体が「正当な理由があれば人を殺しても良い」という思想を体現している。死刑存置国で育った以上、その思想がある程度浸透することは避けられないだろう。「正当な殺人」が好まれる世相は、人を殺してもよい国の宿命か。

 ここで気になるのは、死刑制度の無い国ではどのようなジョン・ウィックレビューが見られるのかということだ。日本もアメリカも死刑存置国だが、先進国の中ではかなり少数派である。ヨーロッパでは、欧州最後の独裁国家として最近ちょっと話題になったベラルーシを除き、すべての国が廃止している。死刑の廃止がEU加盟の条件となっていたりもする。こういった国では、先に述べたような「正当な理由があれば人を殺してもよい」という思想があまり浸透していないのではないだろうか。語学が非常に苦手な僕には残念ながら難しいが、ジョン・ウィックの各国レビューの違いなんかを観察してみると、もしかしたら面白いかもしれない。

 

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