ピュアな自分を恥じる気持ちを見つめる

誰もが生まれたころはピュアで天真爛漫だったはずなのに、大人になるにつれて「現実」とやらに直面するようになり、夢を思い描くのをやめてみたり、自分には何もする力がないと思いこんで目の前のことを機械的にこなすことに終始したりしてしまいがちですよね。「青さ」「情熱」を失った組織の末路の記事にも似てくるのですが、いつの間にか純粋にこうなればいいとか、こうしたいとか、そんなのおかしい!とか思ったり主張したりすることを恥じるようになるのは私だけではないはず。純粋でピュアなのは恥ずかしいみたいな固定概念はどなたにもあるのではないでしょうか。

私は純粋でピュアな人が好きな一方で、自分のそんな一面を否定していた部分があったことに気づきました。ピュアさやこども心については以前、ピュアなこども心を思い出すという記事にも書いています。私のnoteには傍から見たら「きれいごとすぎない?」と思うような内容も多いのではないかなーという自覚もありますし、「そんなにうまくいくわけないでしょ」というツッコミを入れたくなる記事も多いと思います(笑)。本質的に相手のためや社会全体のためにならないと思うことはしたくない!加担しない!というピュアな正義感と、そうは言っても現実を見ろよ、という自分がいて、自分の中で分離していた状態だったのかなと感じています。ピュアな気持ちを持っていられる自分に誇りを持ちつつも、一方で非難する自分もいるという内なる葛藤があったようです。

人は大人になるにつれて、うまくいかないことや挫折を経験し、たくさんの心の傷を負ってしまうものです。純粋でいると傷つくことが多いために自己防衛本能としてその純粋さを押し殺すようになるのだと思います。それは社会で生きていくためには、処世術として必要なことなのかもしれません。純粋さを失うにつれ、人生に諦めを感じたり、自分の可能性や能力に心を閉ざしてしまったり、「どうせ無理」と始めから挑戦するのをためらったりします。それでも心のどこかでは納得していなくて、本当は何でもできると思いたいし、もっともっと自分の本来のスピリットを表現し、発揮したいと誰もが思っています。

ピュアな気持ち、純粋さというのは、一見失ったように見えても、実はなくなったわけではなくて、今までに受けてきた心の傷を癒していくことにより、もとの状態にどんどん戻っていくことができます。ピュアではいけない、ピュアなのは恥ずかしいという気持ちは、単なる固定概念、思い込みですからね。毎日のように書いているので説明不要かもしれませんが、ピュアさ、純粋さはハートの声、「現実を見ろ!」とささやくのはエゴの声ですね。今まで受けた傷が多いほど、「現実を見ろ!」と言いがちになる傾向はありますね。

思い上がると転落するのが世の常の記事にも書いたように、純粋な「世の中のためになるように」とか、「お客様に喜んでもらえるように」とかそういう気持ちを失って、エゴバリバリで儲け主義に走って思い上がると、必ず転落するんですよね。純粋な意見を言う若者(だけじゃないけど)が叱責され、能力を発揮する意欲すら失ってしまうような組織に未来はあるのでしょうか?少なくとも私は、29歳まで枯れることなく持ち続けた純粋でピュアな気持ちを大切に保ち続けていたいです。そのためにも、自らのエゴとハートのバランスを内観し、エゴに傾きすぎないように自分自身に気づいていこうと思います。

私だけではなく、やっていることが本質的にお客様のためにならないと思いながらも仕事だから辞められない、という人は結構多いのではないでしょうか。そういう方は自分の純粋さやピュアさに罪悪感を感じたり、恥ずかしいと思ったりしがちかもしれません。ピュアなのは恥じることでも罪悪感を感じることでもなく、むしろ「お客様のためにならない」と感じる違和感を大切にしてほしいと切に思います。「現実を見ろ!」というエゴがあることを認めつつ、純粋でピュアなハートをもっともっと活性化させていこうと思いました。

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