「平凡」「退屈」を仕事とお金で解決する消費社会

少し前に、「恥」について研究している女性が書いた『本当の勇気は「弱さ」を認めること』(ブレネー・ブラウン著、門脇陽子訳)という本を読んでいたんですが、その本に書いてあったことで印象に残ったことがありました。「平凡であること」への不安が恥の感覚につながっているということです。「平凡な人生には意味がない」というメッセージが氾濫しているという考察もありました。私も同じようなことを考えていましたし、その感覚が昨今のSNS興隆や発信推奨文化(発信するのが良いこととされる)にもつながっているのかなと思っています。

あと、最近読んでいた『新しい貧困 労働、消費主義、ニュープア』( ジグムント・バウマン著、伊藤 茂訳)という本も考えを深めるのに役立ちました。近代化が進むにつれ、社会が生産社会から消費社会になり、現代はすべての人がまず消費者でなければならないのだと考察されていて、貧しい人は「消費者として欠陥がある」という問題を抱えているのだそうです。失業者は有り余る時間があっても、お金がないために時間を使えず、非常に「退屈」であることが苦痛なのだと、そんなことも書いてありました。消費社会においては「退屈」というのが最も避けるべき敵で、常に何かを欲望し、豊かで楽しく充実していなければならないというメッセージの下にあると。最近では自分でそうして満足するだけに飽き足らず、それを他人にアピールする必要もあると。なるほど、そういうことなのだなと改めて思いました。

消費社会の二大宿敵「平凡」と「退屈」。これを解決するのが仕事(労働)であり、お金ということなのですね。「平凡」かどうかというのは「アイデンティティ」との結びつきも強いものだと思います。世の中的には「仕事=アイデンティティ」という考え方も根強いので、仕事によって自らの平凡感を埋めようとする働きもあるのかもしれません。誰にでもできるありふれた仕事よりも、キラキラした称賛される創造性に富んだ仕事の方が価値があるという考えはかなり一般的なのではないでしょうか。ちなみに私は以前「仕事=アイデンティティ」思想への疑問という記事に書いた通り、その人が何の仕事をしているかというのはその人を表すかなり表層的な部分に過ぎず、あまり本質的なものではないと考えています。また、ある程度のお金がないと、自らのアイデンティティを表現するような消費活動ができないのも確かです。よりお金があった方が選択肢が広がり、自らが平凡でないことの証明が容易になると思います。選択肢が広がることが本当に豊かで幸福なのかはまた別問題ですが。

「退屈」が敵であるというのは、街を歩いていればすぐわかります。多くの人が何かをしていないと退屈を持て余してしまい、スマホを見たり本を読んだり音楽を聴いたりして時間を潰しています。私もそんな人間のうちの一人です。私たちは生活のためとか自己実現のためとかいろいろ言いますが、結局「退屈」に耐えられないから働いているのかもしれません。中には食事すらも退屈しのぎだという人もいます。そして働いた得たお金でまた退屈しのぎの消費を行うんですね。まぁそう言ってしまうと、人生そのものすべてが退屈しのぎとも言えるので、誰が言ったかわからない「人生は暇つぶし」といった名言(?)も本当にその通りだなと思うところではあります。

消費社会(を支配する者)は「平凡」や「退屈」は悪だと煽り、人々に欠乏感を与え、欲望を刺激し、消費に追い込みます。これはまさに「足るを知る」の逆をいくもので、賢者の生き方とは真逆な方向性だと思います。人々にストレスをかけることで、ストレス解消・健康維持目的の消費を促す向きもありますね。私自身、モノが増えていくことに対してウンザリする気持ちもあり、「お金の使い方よく考えないとなぁ」と日々自問しています。逆に言えば、「平凡」、「退屈」に耐えられるのであれば、そんなにたくさんのお金は必要ないからそんなに働く必要もない、ということになるかもしれません。

ただ、「平凡」や「退屈」には耐えられたとしても、最大の敵「孤独」に勝てる人はなかなかいないのではないでしょうか。今回の記事の本筋ではありませんが、このことを突き詰めていくと「平凡」や「退屈」に潜んでいる「恥」と「孤独」、すなわち人間関係の問題に行きつくのだと思います。消費社会は「孤独」=悪というメッセージも私たちに刷り込んできますね。こうして考えてみると、消費社会の原動力は何か、ということが少し見えてくるような気がします。

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