外の世界のせいにしないと誓えるか?

第3チャクラのテーマで何度も登場している「被害者意識」についてもう少し掘り下げてみようと思います。「やらされ感」とES(従業員満足度)の記事や「悔しさ」「報われなさ」の正体の記事などに、これまでの報われなかった(と思っている)エピソードを書きました。その他就活で苦しんだ思い出も、大学になじめなかった思い出も、心療内科の薬漬けだった思い出も、いつでも私は「自分は被害者だ」という意識で語っていたように思うし、今でも周囲がひどかったのだ、と思う節が0ではないと感じます。自分の人生を生きていなかった頃ってどうしても「被害者意識」が強くて、悲劇のヒロインを演じようとしてしまう癖があったように思います。

先日、「原因」と「結果」と「カルマ」の話という記事を書きましたが、これも「被害者意識」と関連しています。すべては自分自身の責任において引き起こされたことであり、本来は被害者も加害者もありません。どんなに自分にとって都合の悪いことが起きても、他人や周りや環境のせいにしないで生きられるか…通常の意識状態ではそれはなかなか難しいことのように思います。どうしても他人が悪いように見えるし、理不尽な人や傲慢な人、怒りっぽい人、面倒くさい人など、嫌だな~と思う人がいると、なんでもかんでもその人のせいにしたくなるものです。自分がこんな風なのは親のせい、学校のせい、生まれのせい、会社のせい、仕事のせい、社会のせい…そんな思考パターンを抱えていては、いつまでも自分の人生を生きることはできません。

「仕事で有休が取れなくて…」という方も多いと思います。ただ、それは取れないのではなくて「取ると周りに○○と思われそうだし、評価に響きそうだし、△△に影響が出るし…うんぬん」というように、有休を取ることとその後起こりうる(その時点での予想の)結果を天秤にかけた場合に、有休を取らない方が良いと判断している、ということですよね。他人にどう思われようがその後の仕事に影響が出ようが休む人は休むだろうし、気にしない人は気にしないものです。「他人が○○だから有休がとれない」のではなく、自分自身で休む場合休まない場合を脳内シミュレートして、休まない方がメリットが大きいと思ったから休まない道を選んでいるだけですよね。

有休を取ったとして、その後の結果に責任を取れるのであれば、いつだって休むことはできると思います。責任を取れないなら休まない方が良いかもしれませんが、その場合でも休まないことは自分で決めたことであり、他人のせいではないですよね。以前に「奴隷は自由である」というパラドクスという記事を書きました。雇われている身は退職する自由があるということ。雇う側は、働いてくれている人がいるから成り立っているのであり、過酷な労働を強いるブラック企業などは労働者がいなくなればソッコーつぶれます。うちの会社はブラックだから…と言いつつ働いている人も、退職することはできます。ブラック企業で働くことと退職することを天秤にかけて、それでも今はそのブラック企業で働くことを選んでいるという、それだけのことです。

だから、「ブラック企業=加害者、労働者=被害者」なんてことは全然なくて、自分の責任においてそこで働いていることを選んでいるだけのことです。ブラックな経営をしていたら労働者がいなくなり、会社自体が傾いた…ということであれば、それもまさしく「原因と結果の法則」です。労働者を大切にしなければつぶれるのは時間の問題ですからね。自分で悲劇のヒロインを演じている限り、世界を調和に導くリーダーの役は回ってきません。宇宙シナリオには悲劇のヒロインの役というのは存在しないのですが、3次元の肉体次元において改変されることが多いようで、演じる者多数というのが実態のようです。今起きていることは全部自分の責任であり、他人のせい、環境のせいなど外部のせいにはしないと、どれだけ自分に誓えるか。どれだけその意識を体現して生きられるか。そこにフォーカスすることが第3チャクラ攻略のカギになってくると思います。

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