「大賞」「優勝」とビジネス

昨日はとあるイベントに参加しておりました。私は昔からお芝居を観るのが好きで、今でもたまに観劇しています。昨日のイベントでは「人はなぜ演じるのか」「演じるとは?」といったことについて意見交換をする座談会のような会だったのですが、「演じる」ことのみならず、広く芸術や創作といったことにも考えが及んだので、感じたことを書いてみたいと思います。

「創造力」を養うことで風邪予防の記事にも書いたのですが、人間には創造力を発揮したい、自らの魂の叫びを表現したいという欲求があり、芸術やアートなどの創作、表現というものは自らの欲求を満たすために、生きるために必要な営みとして太古の昔から続けられてきたのだと思っています。自由度の高い、何の制限もない創作活動、というのがそもそもの芸術やアートの起源というかそれが大前提だと思っています。一方で、昨今の芸術やアートを見ていると、やはり「○○賞」「コンテスト」というのが登竜門であったりして、そこで認められるとビジネスになるとか、そういう道筋もあると思うんですね。それが良いとか悪いとかではなく、それだけ芸術やアートの世界で現実的に生きていこうとするのは大変なのだなぁということを感じます。

私がふと疑問に思うことは二つあって、一つは芸術やアート、創作活動の目的が「賞をとること」、「お金を得ること」になった瞬間に意味が変わってくるのではないかということ。もう一つは、「大賞」そのものの公平性や正当性に疑問を感じるものもあり、明らかに裏のビジネス的な思惑と結びついているものも多いのではないかということです。

まず一つ目は、よく「好きなことを仕事にするとつまらなくなるからやめた方が良い」という言説がありますが、そのことともつながるような話で、「勝つことやお金を得ることを目的とした瞬間に自由度が狭まり、自分の表現したいことが表現できなくなってしまう」ということです。アミューズ移籍後の星野源考にも似たようなことを書きましたが、商業主義になりすぎると創作活動に制限がかかるという懸念がありますよね。審査員に受けそうだからこうする、みたいなことって表現の軸を他人に明け渡しているような気がして、そういうことばかり考えてしまうのはどうなんだろうと思います。

二つ目は、結局権威ある賞みたいなものは商業、ビジネス、大企業、マスコミなどとの癒着が多く、お金になりそうなものが大賞になる傾向があるのではないかということです。「コンテストで1位」、「○○賞をとった作品」って話題になるし、映像化されたりしますよね。それって結局公平に選ばれたのかな、そもそも映像化ありきで1位になったんじゃないかな、と思ったりもします。テレビ、広告、大企業のすることはすべて、裏まで手をまわして緻密に計算されたものであると思っておりますので、あらゆることが茶番なのではないかと勘ぐっています。スポーツも八百長問題などが後を絶ちません。人々が熱狂しているスポーツでさえも、スポーツマンシップはどこへやら、お金やビジネスの場になっている。それを知らずにお金を払って楽しんでいるのは一般市民だけ、みたいなことも、公にはされていませんが往々にしてありそうですよね。文学賞や世界的な賞、世紀の発見やアカデミックな分野についても実は茶番なのだろうな、と思ったりします。

そういった賞があることで好きなこと(創作活動)で実際に食べていける人がいるのは良いことのような気もします。しかしながら、なんでも勝ち負け、ビジネスの世界に組み込んでしまうことにはやはり疑問が残りますし、お金が絡むと勝ち負けの公平性にも影響が及びます。競争や商業主義にもまれて苦しい思いをしている人がいるとしたら、一度根本に立ち返ってみることをお勧めします。勝ち負けやお金のことはともかく、「自由に自分を表現できる、創造力を発揮できること」というのが重要であり、人間の根源的欲求なのではないでしょうか。

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