「己の傲慢さを認める苦しみ」を味わい尽くす

エゴとハートの見直し月間は12月にまで延長中。昨日の思い上がると転落するのが世の常の記事に書いたとおり、エゴが肥大し傲慢になり思い上がると必ず転落するのは『平家物語』から語られる万物普遍の法則です。当時の人々も現代の人々もエゴが暴走しがちなのは変わらず、いつの世もエゴとハートのバランスを取ってこの地球で生きていくというのは難儀なことのようです。自分が今まで以上に自らのエゴにフォーカスし始めたので、今までより余計にそう思うようになりました。

「言うは易し行うは難し」なのは、「己の傲慢さを認める」ということだと思っています。ありとあらゆる癒しの神髄はここにあるだろうというのが私の考え。しかし、なかなかこれができないものです。よく「癒し」と言うと、ふわふわ系だと「このグッズを持っていれば○○できる」とかマッサージとか楽にトラウマがなくなるメソッドとかいろいろ思い浮かべると思います。一方、私自身はやはり自分を見つめ直すことなしに癒しが起こるということはない、と思っています。自分の弱さを見つめる、自分の不安や恐れと向き合う、自分の自信のなさを認める…そのあたりまでは結構容易にできると思うんですが、「己の傲慢さを認める」というのがやっぱり一番苦しいので、避けたくなってしまいますよね。しかしそこを通らない限りは、本当の意味での深い癒しは起こらないのではないかと思っています。

これは「己の傲慢さをなくす」というのとは違います。そもそもエゴを完全になくすことはできないのですからね。私が言っているのは「自分は傲慢である、しかしそんな傲慢な自分すらそれも自分だと認めて受け入れよう」という姿勢です。こうして言葉にすると簡単そうなのですが、実際にやってみると難しい。身近にいる「あの人傲慢だな」と思う人を思い浮かべていただき、その方と同じ傲慢さを自分も持っていると感じてみてほしいのです。「そんな傲慢な自分すらもそれも自分だと認めて受け入れよう」とすると、結構苦しくないですか?私は苦しいです。私はそうではないとエゴが抵抗するので、みんな苦しいはずです。だからこそ、「他人のせい」思考は自分が苦しむだけにも書いたように、他人のせいにすることで自分と向き合う(己の傲慢さと向き合うこと)から逃げようとするんですよね。

己の傲慢さを認めることができたとき、相手を責める気持ちや批判する気持ちが薄らいでいくことに気づきます。それを繰り返すうちに、いつの日かエゴ優位の思考から、ハート優位で生きられるようになっているということです。「傲慢さ、自己卑下」がエゴの生き方、「自己肯定感、謙虚」がハートの生き方。似ているけど全然違いますよね。とにかくエゴはジャッジしまくるので、相手に対して批判的になり、自分を責めがちになります。ハートはジャッジせず、すべてを無条件に受け入れていきます。一番「説得力のある言葉」とは?の記事にも書きましたが、カウンセラー、セラピスト、ヒーラーなど癒しの仕事をする人にとって一番大切なことは、ハートを最大限活性化し、無条件に相手を見るというその姿勢、在り方です。テクニックや伝授などは二の次。この思い、考えだけは死ぬまで変わりません。

大事なことなのでつい力説してしまいました。私は誰かを「傲慢だ、エゴが強い」と思うたびに、「己の傲慢さを認める苦しみ」を味わい、そんな自分すら統合して愛していくという作業をコツコツ進めています。私がなかなかサービスを始めようとしなかったのも、この最も大事な点をしっかりワークしていく必要があったからかなと感じます。同じ志の方がいらっしゃったら、是非お話してみたいです。これからも己の傲慢さと向き合いながら、深いレベルでの癒しを提供できるような準備をしてまいりたいと思います。

(【再度告知】「同じ気持ちだ、その通り!」と思ってくださった方は是非初noteオフ会にご参加ください。12月10日(土)の12時ごろ~@渋谷のカフェなどを予定してます。各自食事代のみ。FBやメール(info@muraharu.com)などでご連絡頂ければ幸いです。)

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