「忙しい、忙しい」という現代の退屈

他人は自分を映す鏡と言いますが、コロナ禍で親が在宅で仕事をするようになり、「忙しい、忙しい」と常に愚痴りながら、仕事以外の時間はスクリーン中毒になっている姿を見て、「忙しいと言いながらも本当に退屈な人生なんだろうな…」と思いつつ、そう思ってしまう私も人生に退屈している側面があるんだよなぁ…などと考えていました。自分で選んだ人生なのに、やらされ感ばかり、主体性がなく、愚痴多し。最近、『退屈とポスト・トゥルース SNSに搾取されないための哲学』 マーク・キングウェル (著), 小島 和男 (著), 上岡 伸雄 (翻訳) という本を読んでいたこともあり、「退屈」ということについて少し掘り下げてみました。

過去には「平凡」「退屈」を仕事とお金で解決する消費社会という記事で、「退屈」について取り上げたことがあります。人間にとって「退屈」というのは物凄いストレスで、とにかく何が何でも避けようとするものです。大学の哲学科教授が書かれた上記の本では、現代の退屈を「ネオリベラル的退屈」と呼び、人々はその苦しみを紛らわせるためにSNS等での関心経済(アテンションエコノミー)に依存するようになり、資本(広告主)のための無償労働者になっている、といったことを指摘していました。我々の「退屈な感じ」というのは、資本主義社会において使い捨てにされ、消費される商品であり、そしてそのことをなんとなく自分たちでも望んでいるような、望まされているような感じもあり、無自覚のうちに搾取されている…そんなような内容でした。

現代社会の風潮に絡めた上記の本の考察はとても面白く、興味深いものでしたが、より精神的な別の切り口で「退屈」を取り上げた本もあるのでそちらも紹介しておきます。『「自分のために生きていける」ということ』斎藤学 (著)という本です。こちらの本は癒しの要素が強く、「退屈」に悩む全ての人にオススメしたい内容でした。「退屈」の背後にある感情、主に「寂しさ」と「怒り」について考察されていて、自分が本当にどうしたいか、何が好きかといったことがわからなくなってしまった人が、「退屈」に耐えられず、依存・中毒・嗜癖に陥ってしまう、といったことが書かれています。世間体や他人の評価を気にして他人軸で生きていると自分がわからなくなり、自分自身に「退屈」してしまうのだけれども、それを自分を取り戻そうとする方向で解決するのではなく、刺激やスリルを求めることで感情を鈍麻させてやり過ごそうとしてしまう、それが病理を生むということなのだと思います。自分を失っていくメカニズムについては、私がずっと書いてきている、子育てや教育におけるハラスメント的な態度が大きく関わっています(子育てを変えずして、パワハラ・いじめはなくならないの記事など参照)。

小さい頃から母子分離、学校では横並びを良しとし、意味のない受験勉強をさせ、人々をお金のためにやりたくない仕事に追い込み、病んだ人を薬漬けにし、同調圧力を煽り、社会不適合者に劣等感を抱かせ、ありのままの自分の何たるかに気づかないように、立ち止まって考える隙すらも与えず、次から次へと娯楽やレジャーを与え、関心経済に取り込み、いいねやフォロワーの数を競わせ、スクリーン中毒にする…「退屈は敵!」「社会には適合すべきだけど平凡じゃダメ!」「何もしない時間は無駄!行動すべき!」…という暗黙のメッセージで刺激と情報の渦に溺れそうになる人々。人々のポテンシャルを最大限に殺す、本当によくできた社会システムです。

取り上げた2冊の本では、「退屈」のポジティブな側面として、哲学的思索や高い精神活動に結び付くものである、と述べられています。表現のしかたは多少異なるかもしれませんが、やはりどちらの本もそのようなニュアンスで書かれていました。「退屈」すらも商品化された社会では、自分を見つめ、深く内省する機会、そして社会の(支配層のやっていることの)おかしさに気づく貴重な機会をも奪われているということですね。昨今の娯楽への人々の傾倒は日々加速しているように思われ、苦しい家計と過剰な娯楽依存の謎 という記事にもそんなことを書いていました。今回の記事で書いたことプラス、私が「退屈」とともに日々強く感じているのは「無気力さ」で、これは世の中のしくみを知ってしまったからこそ、という部分が大きいです。この辺りの内省や考察についても、考えが深まり次第書いていけたらなと思います。

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