スカイプ対談&分離感と社会の諸問題

先日11月5日(日)に、9月にもスカイプ対談させて頂いた読者様(Aさんとします)と2回目の対談をしました。前回の対談内容は、スカイプ対談&自分を知ることの大切さという記事にまとめてありますのでご参照ください。前回もそうだったのですが、Aさんとは興味の方向性が似ていることもあって、これまでnoteで取り上げてきた話題やそれに関連する情報交換など、多岐に渡ってお話をさせていただきました。

色々なお話があった中で、それぞれの一番根底にある問題として「分離感」がやはり大きいという話になりました。それは今の私の関心が一番高いことだからかもしれませんが、それでもやはりどう考えても分離感があらゆる問題のあるなぁということを感じざるを得ません。前回、犯罪者を無条件に責められる?という記事を書きましたが、この記事でも分離感の問題を取り上げています。Aさんとも、死刑制度の是非(人道的にまずいという意見で一致)や、厳しい罰を与えて更生するのだろうか?といった話題になりました。ノルウェーの刑務所は更生施設としての意味合いが強く、より快適に過ごせるものらしい(人間として扱う)、という話も教えていただき、興味深いと思いました。

分離感の根本にある競争の意識が問題だという話にもなったのですが、やはりここでも学校の教育制度が良くないという意見で一致しました。対談の中で、今の教育制度はプロイセンの軍隊的教育体系がもとにあると教えていただきました。とにかく点数化、序列化し、ある種の差別意識を芽生えさせるような教育。小さいころから序列化されてしまうことに慣れてしまっている私たちが、優劣感・劣等感の囚われから自由になるのは本当に難しいことです。それは私自身が身をもって感じていることでもあります。勉強は好きだったし、今も好きだけれど、本来の意味での学問や学びというのは、他人と競ってどうこうというものではないはずです。また、誰かに強制されるものでもなく、目的のために学ぶものでもないだろうと思っています。もっと自発的に、独学で学んでいくのが一番本来的な姿ではないかと感じます。

また、学校教育で「考えさせる」内容があまりにも少ないということも嘆きました。受動的に授業を聞いて問題を解いたり覚えたりするのがメインで、ある問題について自分で考えるもの、人生観や世界観を構築できるような機会がありません。宗教や倫理についてはほとんど授業で習いませんし、習ったとしても「○○教が国教となった」とか「無知の知は誰の言葉か?」といった内容で、中身の話ではありません。日本では政治や宗教など思想に関する話題は割とタブー視される傾向にあると感じますが、学校でもなんだか「腫物扱い」みたいな感じで、まともに扱わないことも理由の一つかもしれません。日本の同調勢力を保つため、特定の思想を持たせないように、人々の話題に上らせないようにしているのかもしれません。「みんなと同じが良い」という思想をみんなが持つように仕向けられているのでしょうね。

Aさんは海外の情報にも関心が高いようで、他国の差別意識のことも教えていただきました。アメリカ、オーストラリアはともに移民が多い国家ですが、アメリカは「アメリカ人になりなさい」的な同化政策で、そうでない人が排斥される傾向にあり、オーストラリアは多文化共生的で、差別はそこまでないとのことでした。欧米の白人至上主義やナチスのファシズム・選民思想など、差別意識は分離感の最たる例ですが、こういった思想が根底にある限り、人々の争いや心の苦しみがなくなることはないでしょうね。

スピリチュアルやあらゆる宗教で「すべては一つ・ワンネス」(分離感の逆)的な教えが語られていますし、拙note読者様はもちろん耳にしたことがあるかと思います。しかし、この教えを本当に心の底から腑に落として、そのように生きている人はどれくらいいらっしゃるのでしょうか?私自身もまだ道半ばのように感じています。対談でもお話させて頂いたのですが、私自身はそれを耳にして知っていたところで、その通りに生きていなければ意味がないと思っています。概念として知っていることと、その通りに生きることには乖離があり、本当に身体に染みわたるまで深く深く腑に落としていく必要があると感じます。差別はダメ、死刑はダメと口で言うのは簡単ですが、それが表面的な意識にとどまっていないか、自分自身を深く見つめていくことが大事だなと思いました。

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