一日四時間労働くらいがちょうどいい

「一日8時間、週5日労働」が体力的&精神的に無理すぎて、もう二度と正規では働けないと悟っている私なのですが、そんな私が手に取る本も似たような思想のものが自然と多くなります。最近読んでいたのが『怠惰への讃歌(バートランド ラッセル (著), Bertrand A.W. Russell (原著), 堀 秀彦 (翻訳), 柿村 峻 (翻訳) )』という本でした。ラッセルさんの哲学エッセイが15章ほど収録されています。やはり一番は表題の『怠惰への讃歌』という章でしたね。1932年に書かれた文章ですが、今読んでも頷けるところが多くて、面白いエッセイでした。気になった部分をいくつか引用しつつ、コメントしていきたいと思います。

私が本当に腹からいいたいことは、仕事そのものは立派なものだという信念が、多くの害悪をこの世にもたらしているということと、幸福と繁栄に至る道は、組織的に仕事を減らしていくにあるということである。(p9-10)

本当にその通りだと思います。「働いてお金を稼ぐことは無条件に偉い、働かないことは悪いこと」という世間の強い風潮はありますが、その思想には以前から疑問を抱いています。穴を掘って埋めるような仕事、詐欺まがいの仕事、環境や人体に悪影響の製品を売る仕事などであっても、働いてお金を稼ぐことは肯定されるというのはおかしいと思います。「働いて生計を立てる」ということが生きることの前提になっていて、支配層に意図的に賃金を低く設定されていれば、仕事の質や必要性はどうあれ、人生の大半の時間を働くことに捧げることになってしまいます。

近代の技術によって、或る限度内のひまは、少数の特権階級の特権でなくて、社会全体を通じて、公平に分配される権利となることができるようになった。勤労の道徳は、奴隷の道徳であるが、近代世界は奴隷を必要としない。(p11)

ラッセルの思想においては、「ひま」、つまり時間というものを非常に高く評価しており、富の分配はもちろん、ひまの分配に重きを置いているように見えます。お金に価値があると錯覚させられている世の中ですが、本当に大切なのは、ひま=時間=命であると私も感じています。有名なミヒャエル・エンデの小説『モモ』に登場する、灰色の男たち(時間泥棒)のことを思い出しますね。役所のやたら煩雑な手続きも、レジ袋の有料化なども、人々から時間を奪うのに一役買っているのかなと思ったりもします。

歴史的にいうなら、義務の観念は、権力の保持者が、他の人々に自分たちのためにというより、その主人の利益に仕えるために生きていくようにしむける手段である。勿論、権利の保持者は、以上の事実を自分自身にも気がつかぬように隠している。(p12)

「勤労の義務」、「納税の義務」、「教育を受けさせる義務」、確かにどれも支配者の利益のために生きていくように仕向けられていることを感じさせます。教育は一見よさげですが、要は洗脳ですからね。本当によくできた支配構造です。上から義務だと押しつけられて嫌々やっていると、それを免れようとする人を批判したり、相互監視するような作用も働き、分断も出来ますし、それも支配者にとっては好都合ですね。最近でいうとコロナ騒動でのマスク着用の是非などもその範疇に入るでしょうか。

ひまをうまく使うということは、文明と教育の結果出来るものだといわなければならない。生涯、長い時間働いて来た人は、突然することがなくなると、うんざりするだろう。だが相当のひまの時間がないと、人生の最もすばらしいものと縁がなくなることが多い。多くの人々が、このすばらしいものを奪われている理由は、ひまがないという以外に何もない。馬鹿げた禁欲主義、それはふつう犠牲的のものであるが、ただそれに動かされて、そう極端に働く必要がもうなくなった今日でも、過度に働く必要のあることを私たちは相かわらず主張し続けている。(p16)

この部分もいいですね。冒頭で紹介した一節にも「幸福と繁栄に至る道」について書かれていましたが、ここでは「人生の最もすばらしいもの」と言っています。それは「ひま」によってもたらされるということですね。インスタントな娯楽や誘惑も多い今の時代において、「ひまをうまく使う」というのは確かに難しいのかもしれません。そもそも、ひまの使い方に上手いとか下手というものがあるのかどうかすらわかりません。ひまをうまく使わなければと思うこと自体、「何かをしなければならない」とか「努力して何者かにならなければならない」という呪縛の虜になっているのかもしれませんしね。

私が、働く時間は四時間に短縮すべきだといい出す場合は、何も残りのすべての時間を必ずしも全くつまらないことで過さなければならないというつもりではない。私の考える意味は、一日四時間の労働で、生活の必需品と生活を快的(ママ)にするものを得るには十分であり、残りの時間は、自分で適当と思えるように使える自分の時間とすべきだというのである。(p21-22)

これは何の根拠もない想像ですけど、もし人々に自由な時間が増えれば、表現活動に向かう人が増えるだろうと思うんですよね。あとは本当の意味での学問や研究も盛んになる気がします。ひまの上手い使い方、下手な使い方なんてあるのかと先ほど書きましたが、もしあるとすれば、ただ外にあるものを消費する生き方か、自分で何かを創造する生き方か、その辺りが分かれ道になるかなと思います。人々にひまがあればそれだけ、その使い方によってそれぞれの人生の振れ幅が大きくなると思うので、その人の生き方や人間性がより物を言う世の中になるのではないでしょうか。

誰も一日四時間以上働くことを強いられない世の中では、科学的な好奇心を持っている人々は誰でも、そのおもむくままになれるだろうし、あらゆる画家は、どんなにその画が優秀であろうとも、飢える心配なしに描くことができよう。(p23)

私も上に似たようなコメントをしてしまいましたけれども…。最近はテレビでも「マツコの知らない世界」や「博士ちゃん」といった、何かにものすごく詳しい素人さんが登場するような番組もあったりして、超マニアックだけれどもその道を極めた人というのが注目される時代なのかなと思ったりもします。これまでは大学教授など限られた人しか、「好きなことを探求して生計を維持する」ということができませんでしたが、ブログやyoutubeなどもありますし、そういった活動が一般の人もしやすくなってきた流れはあるように思いますね。生計を維持するための労働時間が減れば、その流れがさらに加速することは想像できます。

そろそろまとめに入りたいと思います…。かいつまんで紹介してしまったのですが、他にもラッセルさんは色々重要なことをおっしゃっているので興味のある方は全文読んでみてくださいね。明らかに生産過剰となったものを破壊するための戦争、というようなことも書いてあったり、だとすると人工的に災害を起こしたりするのも似たようなことだなと思ったり。生産過剰の背後には経済成長を強いるための利子システム、信用創造のシステムがあるんだなと改めて思ったり…あらゆる仕組みが相互作用しあって成り立っているので、労働時間の問題一つとっても背後にある問題が出てきてしまうんですが、「なんで働かないと生きていけない世の中なんだろう?」という素朴な疑問からも調べるといろんなことがわかってきますね。富の不均衡や格差は注目されますが、ひまや時間といった観点も重要だなと感じます。ニートや引きこもりがやたらと叩かれるのも、支配者にとっては都合の悪い「有閑階級」だからなのかもしれませんね。そう考えるとニートや引きこもりの方ってめちゃくちゃ可能性を秘めてるなと思います。「働く」ということに関して引き続き色々と考えを深めていきたいと思います。

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