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海蟻ウミアリ(海洋性昆虫フィールドノート)

海底に着いた僕たちは砂地に無数の穴を確認した。

これは?
と僕は岸辺に尋ねた。

ああ、これは海蟻の巣だよ。
ここは海蟻たちの営巣地なんだ。
と岸辺は答えた。

海の蟻も巣を掘るんだね。

そうだね、陸の蟻と変わらない。
そう言った岸辺が船室を振り返った。

砂によく穴が掘れるもんだな。

僕達の会話を割ったのは横山だった。
いま彼は起きてきた所らしい。
酒臭い。彼は一体、この艦を何だと思っているのか。

岸辺は横山を振り返って説明した。
蟻酸(ぎさん)と言って分かりますか?

いや、俺は蟻のことは知らん。

蟻は蟻酸という酸を分泌することができるんです。蟻に噛まれたことはありませんか?

ない。と横山は答えた。彼はいつも不機嫌そうにしている。僕は正直、この男が嫌いだ。紳士に対応する岸辺の人の良さには呆れる。

僕はあるよ、子供の頃に。
と僕は言った。横山のお陰で僕も些か不機嫌となった。横山に敢えて背中を向けたまま、僕は岸辺と会話した。
岸辺は僕に言った。

噛まれた所がヒリヒリと痛くなかったかい?

うん、痛かったな。確か。暫く痛んだよ。

そう、蟻は噛むときに蟻酸を分泌します。それが痛むのです。海蟻の蟻酸はネバネバしていて、海水と混ざると硬く固まるんですよ。それを使って海蟻は砂にトンネルを掘ります。巣穴は凄く深くて入り組んでいるんだよ。
と岸辺は説明した。

ほら、あそこに海蟻が歩いている。
岸辺が指差したところに一匹の海蟻が歩いていた。

大きいな。
横山が言った。
蟻と言うからもっと目に見えない位のものを想像していた。

海の昆虫は、先程見た蝶たちもそうでしたが、陸のものより大きいですよ。
陸には手のひらを超えるような大きさの昆虫は稀ですね。
昆虫は開放血管なので大きくなると血液が上手に循環できずに死んでしまうんです。
海洋性の昆虫たちは気門を発達させて鰓構造を持ったことにより体液の循環が高密化して、所謂血管構造を持っているんです。
だから陸上の昆虫よりも大きいですね。

それに、と岸辺は付け加えた。
小さいと泳げないし、何より流れちゃいますからね。
と岸辺は笑った。

人懐こい笑顔だ。
彼の笑顔は変わらない。
少年の日のままだ。

円形の窓から見える海蟻の大きさはゴルフボール位に見える。

ああやって餌を探しているんです。
ほら頭を振っている。
触覚で餌が近くにあるか分かるんです。

餌を見つけると仲間を呼びますよ。

砂地を歩く海蟻の近くに仲間の蟻が泳いでいるということだった。
海蟻たちは泳ぐのはあまり上手ではない。
手足をバタバタ動かして不器用に海底に着地するのが精々であるらしい。

昆虫はフェロモンを使って仲間と交流しますね。
海蟻も同じです。

ほら、餌を見つけましたよ。

海蟻は海底に横たわる魚の死骸を見つけた。
その周辺をウロウロと周っている。

ああやって仲間に餌のある場所を教えているんです。
ああすることで、あの周辺のフェロモンが濃くなっていきます。
ほら、来ますよ。

そこから先は、不思議な光景だぅた。
どこからともなく海蟻たちが集まってくる。
そして魚に群がっていく。

顎で魚の肉片を食いちぎって巣穴に持っていくのです。巣穴の中には食料貯蔵庫があるんですよ。

貯めずに食べちゃえば良いじゃないか。
と横山は言った。
俺なら一人で食べちゃうけどな。

彼なりの冗談のつもりらしい。一人でニヤニヤと笑っている。

巣穴の奥には女王アリと幼虫たちがいるんです。
女王アリや幼虫たちへの給餌も彼らの仕事です。女王アリはもっと大きいですよ。
そうですね、私の腕くらいはあります。体の半分は卵巣ですね。
彼らの卵はウズラの卵くらいの大きさです。
年間に300個は産卵します。

へえ?卵なんて巣の中に入ってきた魚に食べられちゃいそうだな。

そんなコトもありますが、殆どの魚は複雑に入り組んだ巣穴の袋小路で身動きが取れなくなります。そのまま蟻たちに襲われて餌となることが多いですよ。

海蟻の巣は魚を誘き寄せる罠にもなっているんです。

袋小路。
僕は魚の気分で蟻の巣に囚われた所を想像した。
真っ暗な巣穴の奥底で見をくねらせて外に出ようとする僕に忍び寄る海蟻たち。
彼らは一瞬で僕の体をバラバラにしてしまうだろう。
僕の肉片は捏ねられて団子になり、幼虫たちの食餌となるのだ。

蟻の幼虫って何だ?どんな姿なんだ?
僕の想像をよそに横山が岸辺に尋ねていた。

蟻と蜂は同じ仲間ですから、蜂の子を想像すると分かりやすいですね。
手も足もない白くてブヨブヨした肉の幼虫です。やがて蛹になって成体へと変態するんです。

魚の死骸に群がった海蟻たちは一列に並んで巣穴に帰っていく。その姿は陸上の蟻に変わらない。隊は規則正しく美しい模様を描く。

僕は見惚れていた。

俺は嫌いだよ、ああいうの。
横山が言った。

俺は蝶が好きだ。
それぞれが自由だからな。
蝶は美しい。昨日見た海の蝶も美しかった。

蟻や蜂は全く違う。
あいつらは何を考えているのか分からん。不気味で残酷だ。正体不明の集団意識があるようで、ぞっとする。
さっきの女王アリの話も同じだ。
女王なんて名ばかりでコロニーのためにひたすら産卵させられる。働き蟻たちに監視されて逃げることも許されないんだ。

僕はそうは思わないな。
窓の外を見たまま僕は言った。

それが昆虫というものでしょう。
生きるということに徹底している。
僕は美しいと思いますよ。

先程からの横山の不躾な発言の数々に僕は少し苛立っていた。
つい無用な言葉を重ねてしまう。

少なくとも生きることが、雑然としていない。
あんたみたいにね。

横山は言った。
俺が雑然としている?
何の話だよ。

あんたは臭いんだ。
アルコールの匂いがプンプンする。
飲み過ぎだよ。
そうやって必要以上にアルコールを摂取して健康障害で壊れていくことを「雑然としている」と言うのさ。

なるほど。坊やの言うとおり、確かに俺は雑然としているんだろうな。だが、生きることの楽しみを知っているのは俺の方だよ。お前より、な。
お前は働き蟻みたいなつまらない奴さ。

横山は僕の苛立ちを意に介さず憎まれ口を叩いた。

俺はお前のようなつまらなそうな人生はゴメンだね。

ふん、と僕は鼻を鳴らした。
肝臓を壊して死ね。

お前も豆腐の角に頭をぶつけて死にな。

岸辺が僕達を抑えた。

二人とも止めなよ。
喧嘩なんて大人げない。
部屋に戻って頭を冷やしておいで。

そして10分経ったら戻っておいで。
美味しいコーヒーが出来上がっているから。

潜水艇で喧嘩はご法度だよ。
艦内の空気が減るからね。

コーヒーは要らないよ。
蟻たちは部屋の窓からでも見えるからね。

まあ、そう言うなよ。
二人とも僕から蟻の話を一つしても良いかな。
巣の奥にいる幼虫の話をしよう。

蟻の育児は凄く手厚いんだ。
幼虫たちは上手に餌を食べることができないからね。幼虫たちのために餌を運ぶんだよ。
蟻の種類によっては女王蟻が口移しで幼虫や幼い蟻に餌をあげることもある。
自然界では珍しく蟻の幼虫は途中で死ぬことがなく、殆ど成虫に成長するんだよ。
どうだい?ロマンがあると思わないかい?

ロマンある話だよ。だけどそこのおっさんに通じるかはしれないけどね。
僕はそう言って中央室を後にした。

その僕の背中に岸辺が声を掛ける。
10分だ。いいかい、10分で戻るんだよ。

(「海蟻」村崎懐炉)