随想「渦について、ABESADA1947」

(坂口安吾 私信)

AVE SADA1947

雑誌社の企画で僕と阿部さんの対談が組まれた。

対談は阿部さんの住居の近くの待合で行われた。対談の時間は小一時間程であったが、だいぶん前から阿部さんは待合に来て食事を注文し、デザアトを届けさせ、ビイルを飲んでいた。
対談は夜だったから、雑誌社が気を利かせて阿部さんは翌朝まで泊まれる事になっていた。

この対談は僕や既に鬼籍となったが織田くんが願ってやまなかった企画でもあった。特に織田くんの阿部さんから受ける薫陶は深かった。彼は阿部定という人間の幼少時代をわざわざ小説に興していた。尤もこの作品は彼自身の衰弱により、途中で打ち切って仕舞った。小説は阿部さんが父や長兄から見限られて秋葉正義の処へと芸妓に売られた所で終わる。この結末は、淪落前夜の静けさに満ちており、それがこの作品の価値に繋がっているように僕は思う。阿部さんを小説世界に於いて少女のままに留め置くことで、阿部さんを清いままに保ちたいというセンチメンタルが織田君にあったのかもしれない。
もし、織田くんが僕と阿部さんが対談することを知ったら化けてでも同席して、煉獄で阿部さんの小説を思うままに書いたに違いない。

僕が対談を終えて駅まで歩くと云うと、阿部さんが途中まで送ってくれると云う。夜も遅いからと固辞したが、知っている土地の事なので、と仰るので、それならばと、お願いすることにした。
待合は用水の側であったから、僕たちは用水に沿って暫く歩いた。
柳が用水に沿って植わっていた。
僕は柳を避けながら用水沿いを歩いた。
柳の葉擦れがサラサラと鳴っていた。
12月の事であるから寒い。

僕は40を超えて、すっかりくたびれた人間になった。座談があるので少しく小綺麗な格好をしてきたが、日頃がボロ洋服しか着ないので外行きの服を着てもどうにもボロが出る。髪をポマアドで固めるようなオシャレも出来ないから、いつも頭はボウボウとしている。
其処へいくと阿部さんは綺麗であった。
日頃綺麗に努めている人はどんな時も綺麗だ。
年は阿部さんが一級上であった。
同じ時代を生きて、阿部さんは若く、僕は古びた。

歩きながら僕は此の度の座談の感想を少し伝えた。
僕の主張するもっともの所は阿部さんが我々国民が秘匿する願望を体現した事への敬意であって、現在にあって阿部さんが一個の人間として自らを生きること、その生きることそのものの立派さを世間に示す事が、僕たちにとっては新たな救いになる、と云う一点に尽きる。これについては座談中も再三阿部さんに申し述べた。

戦後直ぐに群馬で人肉鍋をつついた猟奇殺人があった。ああ言うものは流行しない。殺した者と殺された者とその因果が我々の願望の外にあるからだ。
あの事件に於いて我々の願望に近いところがあるとすれば、それは戦後の圧倒的な飢餓である。当時、僕は焼け野原の東京にいたが、豪邸も長屋も全て焼けて僕たちは野原に放り出された。トタンを組んで屋根を作り其処に身を縮めて家とした。僅少の配給では到底、飢えを凌ぐことはできなかった。田舎の農家に芋を一本買うための列車が満員となって天井にまで人が乗った。
飢えによってまた何人も死んだ。米や野菜を得ようとする人々の満員列車を見ながら、僕もまた泥だらけの真っ黒な顔で歯を食いしばっていた。

そうした中で、群馬の事件は起こった。
警察の発表では母親が夫の連れ子の白痴であった子どもを持て余し、殺害して鍋にして三日間をかけて家族で食らったとあるが、何分警察の言うことであるから、事実とは大きく相違するかもしれない。警察は証拠物と証拠物が並んだ余白を埋める為に、都合の良い自供調書ばかり作るものだ。

本件について知人の記者に聞いた所、この犯人である継母と、その夫、つまり白痴の子の父親ともに少しく頭の弱い所があるらしい。計画的に殺害を企てる事もできぬだろうから、やれたとしても精々が子供は飢餓の中で衰弱して死んで、やはり飢餓の中でその子の腿肉を削いだ程度の事であろう。人肉嗜好者でもない限り、人間はそうそうアチコチの部位を食えないものだ。と、知人記者君は語った。
何でも報道が面白く書こうとするからいけない。

「ヒロポンはやりますか?」
と僕が尋ねると阿部さんは「そうねえ」と答えた。

「僕はね、やはり仕事の前にやりますよ。僕らの仕事と云えば書き始めるとね、止まりませんから。疲れて筆が止まってしまう事は詰まらないんです。だからね、薬屋で買ったものは、ヒロポン五錠と胃薬が一錠薬包に入っているんだけれども、そんなものを呑みます。最近は注射するものも売りに出されましたね。効き目が早いからと専らアレの人もいますが、僕はアレはいけない。医者から勧められて試して見たんだけどね、何うもいけない。」

阿部さんは「そうねえ」と相槌を打っていた。
「織田くんは注射のものを使っていました。彼は男前ですから袖を捲ってチョッとやるのが様になっているんです。だけれども彼は量が多かったからね。やっぱりいけない。」

「織田さんは何うして亡くなったの」と阿部さんが尋ねられた。
「血を吐きました。」
「あら、そうなの。」
「皆死んでしまう。」
「そうね。」
「僕らの仲間ではね、太宰もきっと死ぬ。彼は自殺狂なんです。今までに四回自殺している。芥川竜之介が自殺したときに僕たちは二十歳そこそこの餓鬼だった。すっかり自分も死ななきゃあならないという病気に取り憑かれてしまった。戦争でみんな死んでいき、残った人も飢餓で死に、じゃあ僕はいつ死ぬんだ、と。僕も太宰も遣らず後家のような申し訳無さの中に立っている。死ぬことが一つの道徳なんだけど、だけどその一方で死んじゃ駄目だというもう一つの道徳の声がする。死ねと死ぬなと、言い換えれば人間存在はこの潔癖と堕落という二つの潮流の間を漂うのです。」
「死ねと、死ぬなの、それはどちらが潔癖ですの?」
と阿部さんが聞いた。

そんな事を話しているうちに用水の際まで着いてしまったので、「それじゃあ」と僕と阿部さんはそのまま別れた。

用水は水の流れが小さな渦を作り、柳の葉がくるくる回った。僕は其れを見ていた。
阿部さんを見ると彼女はもう歩き去って消えていた。
柳の葉は流れていってしまった。

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渦について

阿部さんと別れて暫く歩いた後、駅のホオムで列車を待ちながら僕は、うずまきについて考察をめぐらせていた。
僕が阿部さんの中に見ていたものは一つの渦だった。凶暴のメイルシュトレエム。巨大な渦潮の如くの運命に人間は翻弄されながらも、マストに自らを括り付け、あまつさえ自らを鼓舞して、その渦潮に飛び込まねばならぬ。
メイルシュトレエムとはノルウェイの海域に発生する渦潮のことで、エドガア・アラン・ポオが小説の題材にした。主人公の乗った船は巨大な渦潮に巻き込まれる。船が今にも渦の中心にある暗黒に飲まれんとする時、その絶体絶命に抗って助かる方法は唯一つしかない。マストに自らを括り付け、自ら渦潮に飛び込むこと。

阿部さんの幼少時の出来事は全てメイルシュトレエムだ。阿部さんはそれに流され続けて1936年になってしまった。
1936年に石田と会ったのもメイルシュトレエムである。我々が阿部さんに対してある種の羨望、或いは嫉妬を抱えるのは阿部さんが運命の渦潮から脱出した存在であるからだろう。運命に翻弄されながら、船は次々沈んでいく。そういう時代であった。僕らの周りの人間もメイルシュトレエムに飲み込まれて死んだ。当時、男たちは戦争の事しか見なかった。我が身を鑑みれば卑近な絶望しかなかった。そして皆死んだ。
阿部さんは生きた。
生きた女に比べてころされた女はもっと多い。生きた女に比べて生きようとして生きた女はもっと少ない。
1936年のメイルシュトレエムで阿部さんはころされる流れにあったかもしれない。暗い世相であった。暗い世相がおんなをころす時代であったかもしれない。
阿部さんは生きた。

これは此処だけの話であるが、阿部さんとの対談は面白かったけれど、今考えるに僕には全く物足りなかった。
その物足りなさの正体については考察の余地があるだろうけれど、阿部さんは阿部さんであった。どういうことかと言えば僕や織田くんは、何処かで阿部さんに自らを重ねていたように思う。若しくは阿部さんに縊り殺された情夫、もっと端的に言えば切り取られて愛玩された情夫のオチンコロに自らを重ねていた。
阿部さんは自供の中で断切したオチンコロを舐ったり、当てたりしたのだと語った。僕や織田君はそのような幻想を屹度夢想していた。

だが、僕と織田くんはオチンコロではなかった。
阿部さんに愛玩されよう筈がない。
僕は此の度の座談で阿部さんが濡れた瞳でしなだれかかり、うっとりと酌を酌み交わす事を妄想していたのかもしれない。
だが阿部さんは全く阿部さんであって、彼女の心の中にはもう別の情夫がいた。逃げた夫とは別にもう別の情夫がいた。
僕は当時の大宮代議士の如く阿部さんに悲しい説教をするしかなかった。

僕が事件当時の事を振り返っても詮無い事であるけれど阿部さんには二人の情夫がいた。一人が高齢の大宮代議士で、一人はまだ若い石田であった。大宮代議士は「真面目になれ」と未来を説き、石田は現在だけを見て阿部さんと出奔した。出奔してお互いに性器を弄び放蕩の限りを尽くした。その二人の相違の結果、大宮は愛されず、石田は選ばれた。またこの事象は斯うも言える。大宮は愛されなかった故に生き残り、石田は愛された故に死んだ。
ここまで考えて、僕の思考もまとまってきた。
駅に着いて安方の家に戻ろうと列車に乗っている。

結局僕にも男の器量と言うものがあって知らずのうちに僕は故石田氏に勝負を挑んでいたのだ。
男根となり果て灰燼に帰した石田氏と生身の僕の勝負であった。奇しくも当時の石田と今の僕の年頃は同じである。が、これがもう箸にも棒にも引っかからず、僕の良いところなど何ンにもない勝負であった。ボクシングで言えば僕のブロウは全て空振りし、その挙句に僕はヘトヘトになって、スリップダウンを繰り返し、判定で負けた。男性性として完敗である。

そう考えるとムシャクシャしてきて、僕は安方に帰るのを止して、東京駅で汽車を降りて銀座に行くことにした。銀座のルパンでウイスキイを煽って酔い潰れてしまおうと考えた。

オチンコロコロ
オッコチテ
オッコチタラ
オッチンデ
所詮、僕はしがないファルスだ。
オッチンコロコロと酔い潰れているのが相応しい。
明日の朝は宿酔になって、屹度ヒロポンを飲むのだ。ウイスキイに酩酊して宿酔になって、それを鎮めるためにヒロポンを飲んで不眠になって、今度は不眠を鎮めるためにアドルムを飲む。

オッチンコロコロ目眩でゴザル。
三半規管の中に砂粒があるという。
その砂粒が揺れるので人間は自らの傾きを知れるという。ウイスキイとヒロポンとアドルムで僕の三半規管は常に揺れている。僕は渦のような目眩の中にいる。
ガタンゴトンと列車の音を硬質の耳鳴りが掻き消す。眼前が白く眩んで列車に乗り合わせた人々を掻き消す。僕は白痴のメイルシュトレエムの中にいる。

列車がちょうど東京に着いた。
僕は降りた。
人の波に流されながら降りた。この物言わぬ人々の流れ。朝、電車に乗って、夜、電車から降りる。その流れ。繰り返される流れ。その流れが次第に渦になる。戦争が終わって二年。東京駅にも渦が巻く。東京駅の人たちは皆、構内を無言で歩く。無言である。無言であるが暴虐の、メイルシュトレエムが東京駅に渦巻いている。そして僕もまたその物言わぬメイルシュトレエムの中にいる。
東京駅の構内をもやもやしたまま歩いて、銀座に向かおうと駅舎を出る。

阿部さんや石田の刹那的、退廃的、享楽的生き様に僕は自らのユートピアを見出していた。好きなんだから殺してしまえ、と何一つ未来を見ることなく阿部さんは現実に生きた。ユートピアを乳房に抱えて現実に堕ちた。所が僕と来たら当の阿部さんを前にして将来のことばっかり説いていた。全く野暮も良い所だ。

柳の間をすり抜けながら、互いの肩がコツンと当たり、肘がそっと触れ合って、互いに視線を交わしても尚、僕の話が群馬の人肉鍋とは。僕は馬鹿か。浪漫を語ろうとする余り自ずから浪漫の微熱を冷まして仕舞った。失敗である。今晩は全く以て失敗した。
殺シテクダサイ、とただそれだけ言えば良かったものを。

「血を吐く奴は好きだ。死ぬ奴はもっと好きだ。」織田君が血を吐いた時に僕は、彼に対してそんな文章を書いていた。そして彼は程なくして死んだ。ちょうど一年前に織田君は結核で死んだ。僕は織田君が好きだ。だが死ななくても良かった。生きていてくれても良かった。僕は織田君が好きだ。
生きていてくれても良かった。

銀座ルパンのカウンターには今晩も太宰や石川淳はいるかもしれない。が、織田君はいない。あの阿部さんと話してきたのだよ、と興奮して語る相手はいない。

1947年12月、夜の東京駅の入口は東京に降り立つ人間たちの潮流。東京は醜聞と享楽と停電を繰り返す渦。

いや、僕は矢張り今晩はこのまンま安方に帰ろう。今日の話を文章にしたい。浅田先生に手紙を書きたい。阿部さんには本を一冊送ると約束もした。

踵を返すと人の流れとの間に対流が起こった。これもまた渦。

短編小説「(随想「渦について、ABESADA1947」坂口安吾)」村崎懐炉

本作は昭和の文人、坂口安吾を主人公にした小説です。
フィクションですから事実と異なります。
差別的思想、差別的表現が散見されますが、当時の世相を其成に反映した結果の事ですのでお赦し下さい。本作品は犯罪を肯定する意図はありません。
語り口や思想が坂口安吾と全く違うと仰る方もいるでしょう。下手糞な三文小説でございますのでお赦し下さい。
兎に角、色々お赦し下さい。

参考文献
「阿部定事件予審調書」
「阿部定・坂口安吾対談」雑誌「座談」
「妖婦」織田作之助
「阿部定さんの印象」坂口安吾
「阿部定という女(浅田一博士へ)」坂口安吾
「反スタイルの記」坂口安吾
「堕落論」坂口安吾
「安吾巷談 ストリップ罵倒」
「うづしほ」エドガー・アラン・ポー
Wikipediaの各ページ
Wikipediaの坂口安吾の項に阿部定さんと対談したのが1946年の12月とありますが、1947年の誤りであると思われます。(2018年11月14日時点)

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