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「きみの夢って、どんなものだった?」という話から、思考の回廊を底まで降りてみる。

 note、二度目の投稿。

 どうも、ものかきの村田悠です。

 noteにアカウントだけ作って、新しい短編小説アップの約束を反故にしたり(こちらは長編小説にして公募に挑戦するために、第二稿に入っています)、三輪山参拝のレポートを書くといいつつアップしていなかったり(まだ書いていません……)、更新スルスル詐欺をしていて、なんだかすみません。

 きっと誰も、まったく気にしていないと思うのですが、自分だけ気にしています。ひとり心を痛めています。約束って、誰かとするものじゃなくて、自分とするものなんですよね。やれやれ。

 というわけで今日はある作品を読んで、ふと、「僕の夢って、どんなものだったっけ?」ということを思ったので、徒然に書いてみます。書いてみてもいいですか。お、いいですか、そうですか。ありがとうございます。なんだか恐縮です。

 今朝、徹夜仕事の寝ぼけた頭でスマホをいじっていたら、Twitter上でこんな作品に巡り合いました。

 読んだ瞬間、一言では言い表せない感慨というか、感傷に近いものを味わいました。すぐに言語化できない感覚だったので、「ああ、これは、感じたことを後で文章にして整理してみたほうがいいのかもしれない」と思ったのですが、やっぱりそんな展開になりました。もしかすると、noteって、こういうときに使うのかもしれない。うんうん。

 さて、かっぴーさんの作品・左ききのエレン断章「夢の順番」のネタバレは避けたいので、未読の方はぜひとも上記のリンクからご一読ください。そのうえで、ネタバレしないようにざっくりと重要な点だけを述べると、この作品で描かれているのは、夢についてのお話です。

「始める事と、続ける事と、終わらせる事。この3つの内、最も難しいのはどれだと思う?」

 という問いかけで、この作品は始まります。そして、夢について、ある絵描きの想いが切々と語られていきます。生涯のうちで、何かに夢中になって取り組んだことがあって、そこで思い通りにいかない出来事にぶち当たり、なんらかの挫折を経験したことがある人なら、必ず味わったことがあるような葛藤がちりばめられていて、とっても切ない気持ちになる作品です。

 さて、ここで自分との会話が始まります。冒頭にも述べた、「僕の夢って、どんなものだったっけ?」という問いかけです。なんだっけ? おやおや、なんだろう、この胸騒ぎのような感覚は。……僕の夢って、なんだったかなぁ。

 今の僕はものかきをやっているわけで、当然「あんたの夢って、ものかきとして生きていくことなんじゃないの?」という話が出てくると思います。いい年をして幹部職をやっていた会社を辞めて、フリーランスライターになってまで、文章を書いていくことで食べていこうとしているわけですから、もちろんそういう話になるはずです。

 ただ、ここではっきりと感じたことは、「ものかきとして生きていくことは、僕のもともとの夢ではなかった」ということです。

 ものかきは、僕が社会という現実の中で生きていくための具体的な手段であって、本来の目的(夢)ではなかったのです。

 ふつうの人が嫌がるような長い文章を書くことが、偶然嫌ではなかったので、今の生活があるのだと思っています。依頼があれば、どんな文章でも納期以内に規定の文字数で書きますし、生きるため、お金をもらうため、ご飯を食べるために、これまで淡々と書いてきました。

 あるいは、少しだけ運がよかったのかもしれません。昔の上司が経営している広告代理店から、駆け出しのフリーランスライターとしてはかなり割りの良い案件をいくつか紹介してもらうことができました。そのおかげもあって、少なくとも今のところ、生活に困ることはありませんでした。そのことには、本当に感謝しかありません。

 もちろんこれから、「小説を書く」という、表現活動の分野にもチャレンジしていくわけですが、僕がものかきとして主に行ってきたのは、崇高な表現活動ではなくて、上記のようにごく一般的な、社会的な経済活動でした。昔からよく読んでいる小説で、村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」という小説がありますが、いつの間にか、あの主人公がやっているような「文化的雪かき」の専門業者として、僕は生きるようになっていました。


「僕にとっては、ものかきとして生きていくことが夢なんじゃなくて、それは生きるための現実なんだってことはわかった。じゃあ、僕のもともとの夢ってなんだったんだっけ?」と再び思ったときに思い出したのが、音楽でした。

 そうだ、僕は音楽がやりたかったんだ。ギターを好きなだけ弾いて、毎日楽しく生きたかった。ただ、それだけを考えて生きていた時期があったんだ、と。

 今になって思うと、あれはなんだったんだろう、と思うときがあります。十代の僕を、音楽に駆り立てた初期衝動。ギターの指板を触れば、世界の全てがわかるとさえ思っていたこともありました。根拠のない、圧倒的な自信がありました。ジミ・ヘンドリックスのフレーズを弾いて、ゲイリー・ムーアのフレーズを弾いて、彼らのパッションを理解したような、言い知れない万能感に包まれていました。ギターをチョーキングした瞬間に感じる、雷に打たれたような快感。

 まさに、夢の虜になっていた。

 あの初期衝動を、いつから失ってしまったんだろう。


 ……?

 そんな風に考えていたら、また妙な感覚になってきました。

 あれ? その初期衝動って、もしかして、まだ失ってないんじゃないの?

 そうなんです。ふと感じたことは、「あのときに体を駆け巡った初期衝動だけは、今も失っていない」ということです。

 僕は大学を卒業した頃に、音楽に関わることをやめました。「自分よりも上手いカリスマ的なプレイヤーは山ほどいるし、素晴らしい音楽はもう演奏し尽くされてしまっている」という妙な諦観が僕を支配していました。

 そして、社会人になり、いくつかの転職の末に、会社の幹部になり、会社経営の深部にまで触れてきました。やがて、僕にとって最も生きやすい方法が、ものかき稼業であることに気づき、会社を退職してひとり、こうして文化的雪かき仕事をしながら、小説を書いていくことに挑戦していこうとしています。

 ここまで僕を突き動かしてきたものは、間違いなく僕を十代の頃に突き動かしてくれた初期衝動だったことに、改めて気づかされたのです。

 その初期衝動を今、あえて言語化してみると「世界の仕組みを理解したい」という衝動です。ここでいう世界とは、単純な物質的世界だけでなく、不可視なものも含まれます。僕たちがなぜ生き、死に、どこに向かっていくのかを知りたいという衝動なのです。ギターを持ったとき、僕はその片鱗を見たように思います。世界の全てがわかるかもしれない、という予感。そして、僕はその初期衝動に抗うことができなくなりました。

 僕はどうやら、今も昔も、「世界の仕組みを理解する」ために生きているようです。その目的を果たすために、僕はギター→会社員→ものかきという風に、ライフスタイルの中で没頭するツールを変えて、今も生きています。過去にギターを持って感じた初期衝動を、今では小説を書くことで昇華しようとしているのです。

 つまり、音楽をやっていようが、会社員をやっていようが、ものかきをやっていようが、僕が僕自身の人生に求めている本質はずっと変わらずそこにあり、生き残っていける可能性のあるツールにライフスタイルを合わせ続けてきたということです。

 なので、音楽も、会社員も、ものかきも、「世界の仕組みを理解する」という目的を果たすための手段に過ぎなかった。そして、その目的は未だ、果たすことはできていません。だからこそ、今日もこうして、うんうんと考え、手を動かしながら生きています。


「世界の仕組みを理解する?……なんだそりゃ?」

 と思う方もいるかもしれません。

 僕もここまで書いてきて、なんだかぼんやりと「なるほど、自分の人生って、そういうものなのかもなぁ」という感じはしていますが、実際のところ、この文章が湧き出てきた核心部分の所在についてはあまりよくわかっていません。

 この文章は、あくまでも思考整理のための感覚的な文章なので、僕も書きながら考えているのです。なので、あまり読みやすい文章ではないかもしれません。思考の散歩のようなものだとご理解いただければと思います。ここまでお付き合いいただいていて、なんだか恐縮です。ありがとうございます。


さて、ふわふわと文章を頼りに、思考の回廊を延々と降りてみたところで、そろそろ本日の回廊の底に近づいたようです。

 僕が、かっぴーさんの作品・左ききのエレン断章「夢の順番」から感じたのは、僕自身はまだ、目的(夢)との折り合いをつけることができていないということです。「世界の仕組みを理解したい」という僕が今も昔も変わらず持っている夢。それは、果たして、何かを成せば、終わらせることができることのできる夢なのだろうか——それは、今の僕にはわかりません。あるいは、避けることのできない死という終着地が、僕のこの想いを否応なしに断ち切るのかもしれません。

 ただ、ひとつだけ言えることは、僕はまだまだ生きて、足掻いていくんだろうなということです。そして、かっぴーさんの作品に登場する絵描きのように、いつかこの長い夢の終わりを迎えたいと願っていることもまた、事実なのです。

 もちろんこれから先、またツールを変えることだってあるかもしれない。この世には、確実なことや、変わらないことなど、何ひとつないと思っています。自分が自分であるということでさえ、本当のことなのか、今の僕には確信は持てません。なぜなら、僕はまだ「世界の仕組み」を完全には理解していないからです。いったい誰が、何を根拠にして、今この瞬間に、自分が生きている世界を完全なものであると言えるのでしょうか?

 僕にとって、今の世界は「完全に不完全である」という認識のもとに成り立っています。何ひとつ、確実なものはない。だからこそ、僕はこれから、まずはものかきとして、小説というツールを使って、「世界の仕組み」を仮説を立てながら、じっくりと理解していきたいと思っています。

 「世界の仕組みを理解したい」という僕の夢は、僕が死ぬまで続くのかもしれません。

 あるいは、僕が死んでも、なんらかの媒体を介して、続くことだってあるのかもしれません。

 今こうしてPCを通してnoteに文章を書き込んでいる現実でさえ、ほんとうは夢のかけらでしかないのかもしれない。

 誰かにこの文章が読まれているという現実でさえ、ほんとうは夢のかけらでしかないのかもしれない。

 生きているかぎり、僕たちは、醒めることのない夢の、ずっと深いところに誘われているのだと感じています。

 しかし、この世界は完全に不完全ですから、いつ何が起きるかは誰にもわかりません。確定的なことは、何一つありません。この世界は明日とつぜん、びっくりするほどあっけなく、なくなってしまうかもしれません。それは誰にもわからないのです。

 ただ、この世界がかろうじて連続性を保っているうちは、僕は同じことを人生に求めていくだろうという、ぼんやりとした予感だけがあります。


 とりとめのない文章を、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。今日はこのあたりで筆を置きます。

 皆さんにとって、夢とはどんなものでしょうか。この機会に、自分の中にある夢のことを少し思い出してみたり、考えてみたりしていただければ幸いです。

 そして、かっぴーさんの作品・左ききのエレン断章「夢の順番」、ぜひ読んでみてください。痺れますよ。

 一期一会のあなたにとって、今日が良き日でありますように。

 それでは。

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村田悠(Haruka Murata)profile

三重県出身、立命館大学法学部卒。二十代後半から作家を目指して執筆活動を開始。現在、フリーランスライターを行いながら作家としての活動を行う。STORYS.JPに掲載した記事『突然の望まない「さよなら」から、あなたを守ることができるように。』が「話題のSTORY」に選出。STORYS.JP編集長の推薦によりYahoo!ニュースに掲載される。

公式HP: https://www.harukamurata.com/

Twitter: https://twitter.com/muratassu

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