短編小説『理想の家族のかたち』
「ねえ、理想の家族のかたちについて、考えたことはある?」
椿(つばき)はふと、思い出したように話し始めた。
僕たちは吉祥寺の駅前の路地にある、美味い生パスタを食べさせてくれる店でランチをしていた。椿はトマトソースとツナのパスタを頼み、僕は濃いクリームがかかったカルボナーラを頼んだ。
四月の静かな日曜日。
昼下がりの日射しは、春めいた匂いをたっぷりあたためて、路地をきらきらと照らしている。僕はもちもちとしたパスタを口に運びながら答える。
「理想の家族のかたちか。うん、考えたことはあるよ」
「どんな家族が理想?」
「そうだなぁ。あたたかい家族に、とてもあこがれる。たとえば、椿の家族は僕にとって理想だ」
「そう?」
椿は少し不思議な顔をして首を傾げる。
彼女の明るい髪がふわりとゆれ、白い頬にやさしくかかる。
僕は話を続ける。
「働き者でまじめなお父さんがいて、やさしいお母さんがいて、強い兄弟がいる。すごくバランスがとれているし、うらやましいと思うよ。少なくとも、家族はあたたかみのある、安定感のあるかたちをもっているべきだと僕は思う」
「ありがとう。私も自分の家族は好きよ。でも」
彼女は少し、言葉を途切らせて話す。
「私はあなたの家族のことも、すごく好きなの」
僕はほんの少しだけ顔をしかめる。
「……僕の家族は変わっているからね。みんなばらばらに暮らしているし、おまけに離婚しているし。あまりおすすめできる家族のあり方だとは思えないな」
「安定感のあるかたちをもっていないから?」
「そう。僕の家族には、みんなで囲む食卓がない。そんな場所はずっと昔に失われてしまった。父親も、妹も、離婚して家を出て行った母親も、みんな別々の場所で暮らしていて、別々の食事をとっているんだ。理想的な家族には、たとえ離れたとしても、いつでも戻ってこられる、みんなで囲む食卓が必要なんだよ」
「みんなで囲む食卓、かぁ。そうね、たしかに大切なものだと思う」
椿はフォークでくるくると繊細なパスタを巻き、ゆっくりと食べる。僕も太いパスタにソースをからめて口に運ぶ。
日曜日の食事の時間はゆるやかに過ぎていく。
店内には耳慣れた音楽が流れていた。春の訪れを歌う曲だ。なんていう名前の曲だったかな? 思い出せない。
椿は不意にフォークを置き、僕の顔を真剣な表情で見た。
彼女はすごくまっすぐな視線を僕にくれる。出会った頃と変わらない、まるですべてを見通す水面のような瞳だ。とても澄んでいて、にごりがない。
僕は彼女の嘘のない美しい瞳に、ひと目会ったその瞬間から、惹かれていたのだった。
そうした澄んだ瞳を持ちつづけることは、この大きすぎる水槽のような東京という街の中では、なかなか簡単なことではないと僕は思っている。
少なからずひとは日々の暮らしの中で疲れて、そうした純粋性を失っていく。みんなそれなりの言い訳を上手に見つけて、最初に掲げた志をどこかに置いて、瞳を濁らせ、何かのせいにして、なりたかった自分自身から離れていく。
それでも彼女は、彼女のもつ意志の強さで、その美しい瞳の輝きを保っているのだ。僕にはそれがわかる。
椿は少し考えてから話す。
「ねえ、私があなたの家族のことが好きなのは、他でもないあなたの家族が、今のあなたをつくりあげてくれたからなんだと思う。それがたとえ理想的な家族のかたちでなかったとしても、今のあなたはそこからつくられて、こうして私はあなたと一緒にいる。だから私はあなたの家族のことが好きよ」
彼女の言葉はとてもまっすぐだ。
そして、言葉のなかには誇張もなく、装飾もない。
彼女はほんとうのことしか言わない。
僕は彼女に救われて、今ここにいるのだと思う。
椿にはじめて会ったとき、僕は彼女の曇りのない瞳の中に、なぜか、僕がはるか昔に失ってしまった理想の家族のかたちを見たような気がした。
出会って間もない、まだ少ししか話したことのない頃でさえ、そうしたあたたかさを、彼女の内側から感じていたのだった。
僕は彼女の言葉を聞いて、胸があつくなるのを感じた。
あたたかいミルクをもらって、ゆっくりと飲み干すように、僕はその言葉を反芻する。
そして、僕は自分自身の家族にもっている引け目を恥ずかしく思った。
「ありがとう」
僕は椿に、短く、心を込めて言葉を返した。
僕たちはつるつると残りのパスタを食べ終えて、店をあとにする。
僕と椿は並んで歩く。
早くもなく、遅くもなく、共に吉祥寺の街を歩いている。春の風がまた優しく吹いて、街路樹の枝をふわふわと揺らした。
街を行くひとびとは、みんな何ひとつ問題のないような顔をして、ただ平和な日曜日の時間の中を自由に泳いでいる。どこからか、桜の花びらが運ばれてきて、僕たちの足元を淡い桜色で彩った。
僕たちは、きっと今、とても幸せなのだろうと思う。
幸せとは、目に見える成果のようなものではなくて、日々たゆまず無意識に積み重ねていく、目に見えない尊いものなのだということを、僕は彼女に出会ってはじめて知った。
この街にきた時、幸せはすべて目に見えるものだと僕は信じ込んでいた。
でも、それは単なる思い込みだったし、その過程で多くの大切なものを失った。もう歩くのをやめてしまおうと思ったこともあるし、どこか遠くに逃げてしまおうと思ったこともあった。
でも僕はどこにも行かずこの街で踏ん張り、果てしない昼と夜の繰り返しをくぐり抜けて、今のこのあたたかな歩みにめぐり逢うことができた。
誰か、今の僕たちの姿を歌にしてくれないかな、と思う。
ふと、さっきの店で聴いた春の訪れを歌う曲を思い出す。
別に、特別なことばや、おおげさな演出は必要ないのだ。
気の利いたものは何もいらない。
ただ、理想の家族のかたちを歌にして、僕たちの歩みを照らしてほしい。
やさしく、賑やかなほど静かに。
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