見出し画像

「三国志」についての雑談

「三国志」は三世紀にできた中国の史書ですが、「三国志演義」はそれよりも千年以上あとにできた小説ですから、言ってみれば全然別のものです。小説「三国志演義」は江戸時代初期に日本にはいってきて、「通俗三国志」という題でその翻訳がだされました。

その後昭和のはじめころまで250年も、この不出来な「三国志」が国内では流通していました。吉川英治の「三国志」の種本は「通俗三国志」ですし、横山光輝の「三国志」はその吉川三国志をもとに描かれています。わたしも多くの日本人とおなじで、高校時代に読んだ吉川三国志の知識が根っこにあります。

だから「毛宗崗本」を参考に書かれたと思われる柴田錬三郎の、いわゆる柴錬三国志をはじめて読んだときは衝撃を受けました。しかし高島俊男「三国志きらめく群像」は、そういった三国志演義ものを排して、正史「三国志」および「後漢書」「晋書」に基づいて、三国志の登場人物の真の姿を描きだしました。

そこでは、たとえば関羽も張飛も諸葛亮も、吉川三国志や横山光輝によるイメージとはだいぶちがいます。張飛の最後は自業自得といえる悲惨なものでしたが、正史にみる関羽の最期もまた情けないものだったようです。関羽は、いまでも世界中に関帝廟があるように、中国史上でもっとも人気のある人物です。

しかし正史「三国志」では評価がよくありません。同僚の武将たちや文官に非常に横柄、驕慢で顰蹙をかっていました。おなじ劉備陣営の将軍たちに好意をもたれていなかったようです。「勇名をたのみ、作軍に法なく、ただ思いこみで突進するのみ。だから何度も負けて兵をうしなった」と評されています。

関羽の最期も人望のなさが原因となっています。ひとり城を包囲して持久戦となってしまい、何人かの武将に応援と兵糧を送るように要請しましたが、だれひとりとして応じなかったため、敗走せざるをえませんでした。しかし部下がみな関羽を見捨てて降伏してしまい、呉の待ち伏せ部隊に捕らえられます。

三国志演義の話とはちがって、そのまま息子の関平ともども斬られてしまいました。吉川三国志の最期ともだいぶちがいますね。どちらかというとこちらが史実にちかいのでしょう。「三国志演義」は成立当初から劉備が正義の主人公、曹操がその敵役でした。しかし正史「三国志」のなかでは曹操が最重要人物です。

残された魏の資料が豊富だったせいか三国のなかでは「魏志」の分量が圧倒的に多く、そのなかで曹操の人物像が生き生きと描写されています。もしかすると王欣太「蒼天航路」が、実は正史「三国志」の精神をもっとも正しく伝えているのかも、と思った次第でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?