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ここがいつも、はじまりの地だ 【2/8(土)浦添キャンプ日記①】

球場が近づいた瞬間、まだ姿も見ていないのに、「みんなここにいるんだ…」という実感が急に湧いてきて、隣の息子のひざをバンバン叩いた。

「いるんやで…みんないるんやで…」と、半泣きで言う私はおそらく、端から見れば「なんか見える人なのか…?やばい人なのか…?」と、映るはずだ。

でもそんなことに慣れっこの息子は、「そうだねえ、いるねえ。」と、つぶやいた。

浦添球場では、エイオキと嶋さん、そしててっぱちとエスコバーが、キャッチボールをしている。ぐっちは、にこにこ笑ってボールを投げる。みんながわっと一斉にグランドに集まるその姿を見て、今年も元気に私は、少しだけ泣く。

背番号2は、びっきーではなく、エスコバーが背負っている。ぐっちのキャッチボールの相手は、ココちゃんではなくなっている。みやさまの声は、ここには響かない。去年と違う景色が、ここにはある。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」

本当に、その通りなのだ。

だけど、去年いなかった(出番が少なかった)ぐっちやなおみちが、そこにまた戻ってきている。

「流れ」は少しずつ経路をも変え、とどまることを知らない。でもそれはきっと、過去の流れを受け継ぎながら、進んでいく。行ったり戻ったりしながら、消えては結びて、続いてゆく。私はただその流れをそっと、眺めるだけだ。もちろん私自身も、流れてゆくのだから。


お昼過ぎ、練習を終えたぐっちが、目の前でサインを始めた。去年は「サインをしているところ」に出くわすことすらなかったので、私は混乱を極める。

こんな時に限って、「がんばれ!」と背中を押してくれる子どもたちも近くにいない。(私はへなちょこなので基本的にサインをもらうことができない)

震える手で、「いつかぐっちにサインをもらえる時が来たら」と、持ち歩いている仕事用の手帳を取り出す。でもそこからまじで一歩たりとも1ミリたりとも動けず、ぐっちは人ごみに紛れて遠くへ行ってしまう。

私はそっと、手帳をバッグに戻す。

だけど後から思い返せばその、「もしかしたら、ぐっちに直接サインをもらえるかもしれない」というとんでもない緊張感は、それだけでもう、なんというか、少し、しあわせな時間だった。

そこにぐっちがいて、もしかしたら、こっちに来るかもしれない、というその一瞬の、あの感覚。

いや実際のところ、私はまじで動けず手帳を抱えて立ちすくんでいたわけだれど。先輩の第二ボタンをもらう中学生のように。いやもらったことないけど、第二ボタン。

それだけで幸福感を与えるくらいに、なんというか、野球選手ってすごいんだよな、と、また当たり前のようで、普段ちょっと忘れがちなことを思う。だってあんなに緊張すること、中学生の時に好きな先輩を目の前にした時以来だと思う。好きだったのは同級生だったけど。あとぐっちは歳下だけど。


迷惑かな、と、思いながら、この前知り合ったヤクルトファンの方に、キャンプの動画と写真を送る。すると、「ぐっち!哲人!もっとください!!!」と、テンションの高いメールが返ってきて笑ってしまう。

みんなみんな、ヤクルト成分不足だったんだな。だけどその感じが逆に、春はすぐそこなのだ、ということも、感じさせる。

また、春が来る。また、泣いたり笑ったり忙しいシーズンが始まる。誰もにとってそれはまた、大切な一年だ。


ぐっちがファーストから投げたボールを、なおみちがキャッチする。去年いなかった二人が描く、その軌道がうれしくて、私は両手に力を込める。

失った時間はその中でも、何かを育んでいたのだと信じたい。「休まざるをえない時間」というのは、いつだって苦しいけれど、でもその「休み」が良いきっかけになることだって必ずある。長い目で見た時に、休んでよかったと思える時はきっと来る。それはきっと、誰しもにとって。

いつだって100%で走り続けることはできない。休んで、立ち上がって、また走り始めればいい。そうして少しずつ、少しずつ、前に進んでいけばいい。


みんなが帰った後の、誰もいないブルペンをぼーっと眺める。

はじまりの地なんだな、と、思う。ここから、またまっさらなところから、みんなスタートを切るのだ。

いつもいつも、ここから始まる。過去においてきた痛みも(16連敗もなにもかも)まずはリセットして、またここから。

今年も良いシーズンになりますように。浦添の空に、そっと祈る。

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