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そこにある「いつも」の空気に触れながら 【11/8戸田球場】

ぐっちがトスを上げて鵜久森がトレーニングをしている。「あーしー(鵜久森)と比屋根どっちが先輩なん?比屋根後輩やろ?」と言っている。それを言うなら「みわちゃんとぐっちどっちが先輩なん?ぐっち後輩やろ?」と言いたいところである。「比屋根、短大卒?」とぐっちはなぜか何度も聞く。なんや、短大卒。

「餞別やからな」とさらりと言って、ぐっちはトスを上げ、比屋根が打ち続ける。「戻せオラー!がんばれオラー!あしあしあし!」とぐっちが叫んでいる。エセ松山である。見ている人たちは爆笑している。平和だ。

後ろのトラックでは、由規がずっとトレーニングをしている。たぶん、一番長いあいだ走っていたと思う。(私はなんせ途中でむすめとおべんと食べるために隣の公園へ移動したので最後までは見ていないのだけれど。)

ぐっちとびっきーと慎吾の三人は、明らかにいやいや(特にぐっち)といった顔をして、トラックで中距離を走り始める。バテバテで走るおじさんを見ながら、むすめが、ママのが速いんじゃない?という。うむママもそんな気がする。私ごときでプロ野球選手に勝てることがあるとしたらそれはちょっとすごいことではないだろうか。

長距離走が苦手でももちろんプロ野球選手になれるし、プロ野球選手にできないことが自分にできたりする。なんでもできる人はいないし、よくよく探せば誰かにできなくても自分にできることだってちゃんとある。全部できなくたって、全然いいのだ。

そんなことを考えながら、比屋根にそっと差し入れを渡す女性ファンの方を見かけて、きっと今日の戸田には、いろんな人のいろんな思いが、集まっているのだな、と思う。

鵜久森や比屋根が引き上げてゆくのを遠くから見ながら、「がんばれ、がんばれ」と、その背中にそっと祈る。

今日ずっとその二人と一緒にいたぐっちは、きっと、去りゆく人たちの気持ちが痛いほどわかるのだろうな、と、思う。その全てがさらされる厳しさや、痛みや、不甲斐なさのようなものや、そんな気持ちの全てが。

だけど、というかだからこそなのか、戸田には、とにかくそこにだけは、悲壮感のようなものは一切なかった。そこにいる人たちが、そんな空気を絶対に作り出さなかった。鬼コーチと扮したぐっちの声が響き渡り、びっきーがつっこみ、みわちゃんがいじられ、お客さんが笑い、むすめがおなかすいたという、そういう「普通」の空気がそこにはあった。むすめは関係ないけど。

それはシーズン中、どんなひっどい負け方をしても、翌日神宮へ行けばにこにこアップしている選手がいて、なんだかほっとしたあの空気に似ていた。どんな時でも次の試合はやってきて、日々は続く。勝った人も、負けた人も、平等に。

誰かが去っていくことは、その人を思い続けた誰かにとってもまた、もちろんつらくて切ない現実だ。誰かを好きになるということは、失う痛みを同時に背負うことということだ。それは「ファン」も、「恋人」も、「家族」も、みんなみんな同じことだ。

だけどそれでも、誰かを好きになるというのは素晴らしい気持ちだよなと思う。失う痛みをどれほど背負ってもなお、それは、大切な感情だ。生きている限りやっぱり、誰かを好きになって(それはそんなに多くなくていいから)生きていたいと思うから。

私は遠くから、そんないろんな人たち、去りゆく人、見送るファンや、チームメイトにも、ただただ、がんばれ、がんばれ、と祈ることしかできない。大丈夫、どんな時だってちゃんと明日は来るから、と。ここにちゃんと「いつも」の空気がある限り、日々は続いてゆくから、と。

少しずつ変化してゆくその日々が、この先も素晴らしいものでありますように。心から祈っています。がんばれがんばれ、みんながんばれ。

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