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【6/30阪神戦△】 一つの勝敗には、もっといろんな要素が絡み合っている

栗さん(栗山監督)は、試合の中に「あの場面が勝敗を分けた」といったような場面はない、と言う。

私はこの栗さんの考えがすごく好きだ。もちろん、その1点がなければ勝っていた(かもしれない)、その1点を取っていたら勝っていた(かもしれない)、という点はたしかに存在する。勝利投手がいて、敗戦投手がいて、勝利打点というものがあるわけで、それはたしかに「勝敗を決める」場面では、ある。

だけど、一つの試合には、それまでにもっといろんな場面がある。9イニング分、打者9人分、その一打席一打席に、意味がある。だから一つのミスや一つの失点「だけ」が、勝敗を左右しているわけでは、決してない。

何かや誰かに責任を押し付けてしまうことができれば、それは気持ちはそのときにはすっきりするかもしれない。

例えば自分が関わっている仕事であれば「自分は悪くない」「自分のせいじゃない」と思うことで、楽になるということはある。でも当然、それが本当の意味でなんの解決にもならないことは、誰もがわかることだ。「人のせい」にしているだけじゃ、事態はなにも好転しない。「自分にできること」を省みないことには、まずなんの変化も起こらない。それはまあ、考えればすぐにわかることだ。

でも意外と誰もが、「自分が関わっていないこと」に関しても、何かや誰かに責任を押し付けたくなりがちなのだ。自分の応援しているスポーツチームが負けたとき、「この誰かのせい」だと言ってしまえれば、なんとなく、イライラする気持ちが落ち着くように感じるのかもしれない。「あのプレーがあったから」「あの1点があったから」と言えれば、気持ちは少しはすっきりするのかもしれない。

自分が関わっていないことだからこそ、それはテレビの向こうで行われているからこそ、誰かやなにかの「責任」みたいなものに、集中的になにかを言いたくなるのかもしれない。

でも、そうじゃないのだ。結局のところ、誰かや何かを集中的に責めたところで、事態は一切、好転しない。自分が関わっていることと、その辺りは同じなのだ、と思う。

もちろん、愚痴の一つや二つ、言いたくもなる。ミスやエラーには、大きなため息をつく。はーもう見てられない、と、テレビを消すことだってある。そして自分がミスをしたかのように、深く深く、なんでそんなことが起こってしまうのかを考えこんでしまうこともある。それはどれも、自然な反応だ。スポーツを、好きなチームを応援するというのは、まあそういうものだから。

だけどそれをそのまま、言葉の刃にして誰かに投げつけるのは、やっぱり健全ではないよな、と思う。「誰かが悪い」と言葉にしてしまった時、その画面の向こうにいる人は、発した言葉はもう何百倍にもなって深く突き刺さる。言葉は、ときにものすごい暴力になる。負の言葉は、良き言葉の何倍も届きやすい。できるだけそんな言葉は、私の好きなチームの人たちには、好きな人たちには、届いてほしくない、と、そう心底思う。

荒木が取れなかった一つのアウトは大きかったかもしれない。シミノボが打たれた1点は大きかったかもしれない。でもそれだけが、今日の結果の全てではない。一つの勝敗には、もっといろんな要素が絡み合っている。

結局のところ、その失敗を次に生かしていけるのは本人だけだ。見ているこちらは、その一つのプレーの裏に山のようにある努力や苦悩を思いながら、(ため息をつきながらも)そっと応援することだけなのだ。

どんなことだって、見えているのは本当に、氷山の一角でしかない。どんな仕事だって、外に出るものの裏側には、山のような失敗や苦悩や葛藤がある。地味で地道な積み重ねがある。それは、野球選手だってサラリーマンだって、みんな同じだ。

その裏側にあるものをたまに思いながら、今日も静かにワインを飲んで、はあ、そろそろ勝たないかなあ、と、つぶやきながら応援していくのだ。

みんな同じように、そうやってがんばっていくしかないのだから。


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