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バッハ エピソード1 写譜
バッハは、9歳のとき、母を失いました。
父はまもなく再婚しましたが、翌年亡くなってしまいます。
そこでバッハは、小さな町オールドルフでオルガニストをつとめていた長兄、ヨーハン・クリストフのもとにひきとられました。
このオールドルフ時代(10~14歳)に、バッハは長兄からクラヴィーアの手ほどきを受けたといわれています。
上達はめざましく、兄の与える曲を次々と征服。
バッハは長兄の秘蔵していた楽譜
バッハ エピソード2 聖歌隊奨学生
オールドルフに住む長兄ヨハン・クリストフに引き取られ4年。
その兄にも子供が生まれ、生活が苦しくなったためバッハはひとりだちしなくてはなりませんでした。
そこで、リューネブルグの聖ミカエル教会の附属学校で優秀な歌手には奨学金が支払われるということを知り、1700年3月1日、15歳のバッハは北ドイツのリューネブルクに旅立ちます。
試験に合格したバッハは、聖歌隊奨学生となったのです。
やがて変声
バッハ エピソード3 オルガニスト バッハ誕生
バッハは、リューネブルグの聖ミカエル教会の附属学校で聖歌隊奨学生として勉強しながら、近隣の街へ頻繁に訪れ、オルガン音楽やドイツの宮廷社会で流行していたフランス風音楽など、さまざまな音楽を吸収していきます。
同時に、教会のパイプオルガンの改修工事も見学しオルガンの仕組みも理解していきました。
こうしてオルガン演奏能力はもちろんオルガン製作の知識を得たバッハは、アルンシュタットという街にある教会の
バッハ エピソード4 ニシンの頭
バッハは、リューネブルクの聖ミカエル教会の附属学校で聖歌隊奨学生として勉強しながら、近隣の街へ訪れ、色々な音楽を吸収した中でもハンブルクの聖カテリーナ教会でJ.A.ラインケン(1623-1722)によるオルガン演奏が何よりも響いたかもしれません。
この時の面白エピソードが逸話として残っています。
バッハがお金を使い果たしてとぼとぼとリューネブルクに戻る途中、お腹が空いたのを紛らわそうと歌ってい
バッハ エピソード8 ツィレの宮廷
リューネブルクの寄宿舎時代、バッハと同じ建物に住んでいたフランス人のダンス教師トマ・ド・ラ・セル(1666-1705)は、貴族の子弟たちにフランスの旋律をヴァイオリンで演奏しダンスを教えていました。トマ・ド・ラ・セルはフランスの大作曲家リュリの弟子です。
バッハのチェンバロやヴァイオリンの才能を見込み、彼は宮廷音楽師もしていたツェレの宮廷にバッハを同行させ、宮廷楽団によるフランス音楽演奏を度々聴
バッハ エピソード9 アルンシュタット事件
アルンシュタットにて18歳でオルガニストとなったバッハ。
職務には聖歌隊の指導もあり、レベルの低い隊員にイライラしてかつらを投げつけたり、怒鳴ったりしたようです。
あるとき、ファゴット奏者の隊員が「山羊ファゴット」とバッハに言われて憤慨し、バッハを待ち伏せして顔を殴ります。
バッハは剣を抜き切りかかろうとしましたが、周りの人に止められて事なきを得たということです。
あとで学校から「多少は妥
バッハ エピソード13 バッハ結婚
1707年、22歳の若き教会オルガニストであったバッハは、「またいとこ」にあたるマリア・バルバラ・バッハとドルンハイム村の聖バルトロメオ教会でささやかな結婚式を挙げます。
マリアはバッハのひとつ上の姉さん女房。父親同士が従兄弟という親戚関係のマリアとバッハは、幼い時に両親を亡くしたという境遇が似ていることもあり、惹かれあったのではと言われています。
子供は7人いましたが、生きながらえた子供は4
バッハ エピソード14 音楽家一族バッハ
バッハ一族がドイツ中部のチューリンゲン地方に住みついたのは1580年ごろのこと。
「バッハ」という言葉はドイツ語で「小川」を意味しますが、東ヨーロッパの一部の方言で「放浪の音楽家」を意味していたらしいということです。
パン屋を営んでいた曽曽祖父ファイト・バッハから数えてJ.S.バッハまで一族31人の男子のうち、教会オルガニストや宮廷楽師、楽器職人など28人もの音楽家を輩出しています。
J.S.