【ドラゴンのエッセイ】賢い人

 今回は俺が思う「賢い人」について語ろう。今回から一人称が「俺」に変わったのは、より日常会話に近いトーンで文章を書くためである。noteで読んでもらいやすいのは、人間くさい文章だというのも読んだ。その影響でもある。これは俺が思う最大限の「人間臭さ」の表現でもあるのだ。
 文章の調子が変化していく分、多少強い意見も書くかもしれない。だが、批判上等! という気持ちだ。批判もされない作家というのもどうかと思うし。なので読者のみなさんには、これを読んで感じたことをぜひ聞かせてほしい。遠慮はいらないから。

 前置きが長くなったが、いよいよ本題に入ろう。
 俺が思う「賢い人間」というのは「偏見のない人間」である。差別をしない人間、と言ってもいい。
 俺は肢体不自由という特性上、偏見や差別的な目を向けられることが多い。それでも中には、「あなたに障がいがあるかどうかなんて、友だちになるのに関係ないよ!」と言ってくれる人がいる。定期的に記事にしている親友をはじめ、Twitterのフォロワーさんもみんなそういう人だ(定期的にやり取りするような人はね)。
 フォロワーさんには最初に、私は障がい者ですと告白する。それで手のひらを返したように連絡を返してこない人もいる。悲しい話だが、事実だ。
 しかしここで勘違いしてほしくないのは、俺はそれについて怒っているわけではないということである。自分の経験や常識から外れた存在と接した時、恐怖や拒絶の意思から距離を置こうとする人が出てくるのは当然だ。悔しいけれど、それを責める気はさらさらない。その離れていった人たちにとっての俺は「ドラゴン」という個人である前に「障がい者」だったのである。悲しいが受け入れる他ない。心情として理解はできるし。

 では俺が「コイツ賢くねーぞ」と思うのはどんな人間かというと、健常者だということだけでマウントを取ってくるようなタイプである。デリカシーのないヤツ、と言い換えることもできる。こういうタイプの人間は例えば「俺は男だから女よりは上だ」とか、「俺は先輩なんだから言うことに絶対従え」とかいうとんでもない理屈で生きている。こういうヤツは、お世辞にも賢いとは言えない。俺の大嫌いな、差別を平気でしてくる。実例を紹介しよう。

 学生の頃、施設に職場体験に行った時のこと。俺は男性のスタッフさん(年齢は20代前半くらいだった)と2人でお手洗いに入った。そこで恋愛の話になった。
「ドラゴンくんはさ、彼女とかいるの?」
「いや、いないですね。好きな人はいましたけど、一回も告白なんて出来たことないので」
「あー、だろうね」
 まず、ここでカチンと来る。「だろうね」というのは「障がい者が告白なんかできるわけないよね」という意味にしか聞こえない。これがSNS上のやり取りなら、(笑)が付け足されていてもおかしくない(実際彼は半笑いだったし)。
 確かに俺は、告白なんかできる身分じゃないと自分では思っている。だが、それを人から言われる筋合いも、ましてや笑われる筋合いもない。
 それでも適当に相槌を打っていたら、「まあ、ドラゴンくんよりは俺の方がモテるよ?」ときた。
 いや、当たり前だろ!
 健常者の女性に「健常者と障がい者、彼氏にするならどっち?」って聞いたら、ほぼ100%健常者って答えるだろうよ!(まれに健常者と変わらないレベルで日常生活を送ることができている方もいる。その場合は別としても)
 俺がなんで好きになった人に告白しないか教えてやろうか? 相手に迷惑だと思うからだよ! プレッシャーにしかならないからだよ!

 と、こういうことをあのスタッフに言ってやりたかったという話です。語気が少々荒くなってしまいました。失礼。
 でも読者の皆さん、どう思いますか? 失礼なのは明らかに、スタッフの方でしょう? 上記のことを俺が言ってしまったとしても、仕方ないとは思いませんか? 言わなかったけども。
 このように、賢くない人間と関わると、無条件でストレスが溜まる。障がい者施設のスタッフを目指す方には、ぜひとも「デリカシー」や「気遣い」という言葉をしっかり勉強して頂きたい。障がいについての勉強と違って、こちらはさほど難しいことではないはずだから。それ以前に、人としてどうかという話だと思わなくもないが。

 ここまで読んでもらうと分かるように「賢い」と「頭がいい」は絶対にイコールではない。似て非なる言葉だ。東大を出ていても賢くない人間は存在するだろうし、中卒でも賢い人間もまた存在する。
 例えば、俺の親友Nさん。彼女は「タコライス」という料理に実際にタコが使われていると思っていたり、ハサミで紙を切らずに自分の指を切ってしまうような人である。でも俺は、彼女のことを賢い人認定している。彼女は不確実な情報で物事を判断しないし、何より俺を「障がい者」として扱っていない。たぶん、「少し身体の動きが不自由なだけの人」くらいに思っているんじゃないだろうか?

「障がい者」と、「少し身体の動きが不自由なだけの人」。あまり違いがないように思えるが、「だけ」という部分はかなり重要なピースだと思う。
 どんな障がいでもそうだが、健常者から一定の理解が得られれば普通に人間関係が築けることが多い。例えば俺の場合、立ったり歩いたりが難しいということさえ分かってくれていれば、大抵の人とは友だちになれるはずだ(気軽に2人だけで外出したりできるかどうかはまた別問題だが)。
 知的や精神に障がいを持つ方も同様だ。健常者から少し不便だったり、面倒と感じる部分はあるかもしれないが、それを踏まえて関係を作ることができれば決して「付き合いにくい人」でもなければ「危険人物」でもない。

 極端な話、「この人は障がい者だ」というような考え方の人間は差別をするだろう。だが、「障がいがあるだけの人」と考える人は差別をしない。「だけ」という言葉には「あとは普通の人」というニュアンスが入っているからだ。
 つまり「障がいを持っているだけの、普通の人」という考え方だ。俺に置き換えれば「立ったり歩いたりができないだけの普通の人」といったところか。
 親友Nさんに限らず、俺が好意的に付き合っている人全員が、この考え方でいるのだと思う。「もし障がいがきっかけで何か不便があったら、その時に考えればいいんじゃん?」的な。そういう人たちは、得てしてマウントを取ってくることもない。というか、仲良くなろうとしてる人に、普通マウントは取らないよね?

 ということで、俺が思う「賢い人」について書いてみた。世の中が「賢い人」ばかりになれば、差別はおろか戦争だってなくせるかもしれない。
 だから読者の皆さんには、「自分の尺度だけで物事や人のことを計らない」ということを意識してほしい。
 例えば好きなアイドルの情報をネットで調べるにしても、自分に都合のいい情報だけ集めて喜ぶのは簡単だし、気持ちもいいだろう。ただ、自分が本当に「調べたい」と思ったことなら、勇気を出してネガティブな情報も含めて集めるべきだと俺は思う。ネガティブな情報も知った上で、それをどう受け取るか決めるのは自分だからだ。そして何より、ネガティブな情報があったからといって好きでいちゃいけないわけじゃない。好きでい続けるかどうかを決めるのも自分だ。
 ただ、偏った情報、認識だけで下した判断は、高確率で間違ったものだと思う。だからこそ俺は、俺の障がいのことをきちんと理解した上で離れていく人にはむしろ好感を持っている。正しい情報を受け取り、「下手に付き合ったら傷つけてしまう」という判断を下したのだと思えるからだ(何度も言うように、もちろん平気なわけではないが)。そういう人はきちんと、俺にも断りを入れてくれるし。
 私のフォロワーでいる人は、全員賢い人だと信じている。そして同時に、こんな俺を受け入れて友人でいてくれていることにとても感謝している。世界中に、もう少しでいいから賢い人が増えてほしいと思っている。差別がなくなっていきますように。

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