【ドラゴンのエッセイ】学校に行くということ

 先日、加藤シゲアキくんのエッセイ集「できることならスティードで」を久しぶりに読み返した。俺がエッセイのテーマに悩んだのがきっかけだが、思うことがあったので書いてみようと思う。

 エッセイの中に「小学校」というものがあった。加藤くんがMCを務める番組で「どうして学校に行かなければならないのか」という問いを投げかけられ、その質問にに彼なりの答えを出そうと考えを巡らせていく。
 現在、俺も就労支援施設に通えないという状況である。もちろん学校に行けない、もしくは行きたくない人たちと同じだとは言わない。しかし似たような状況ではあると思っている。そこで今回は、さまざまな理由で学校や会社から足が遠のいてしまっている人たちに読んでほしい。俺がどういう考えを持って日々の生活を送り、「働く」もしくは「社会と関わる」ということに対してどういうスタンスでいるかということを表明してみる。参考にはならずとも、少しでも気持ちが軽くなってくれたなら嬉しい。

 まず大前提として、いじめなど学校や職場に行くことで肉体的、もしくは精神的に調子を崩してしまうような場合には、無理をしてまで社会とか関わらなくてもいいと思う。むしろそういった場所とは縁を切ることを検討するべきだとすら思う。
 その上で俺が一番大切だと思うのは、「諦めない」ということだ。「これでいいと思わない」と言ってもいい。
 今現在学校や職場に行けないからといって「ずっとこのままでいいや」と思わないでいること。もちろん自分の望む条件を追い求めるのはいいことだ。しかし条件に合うところが見つからないからといって「もういいや」という気持ちにならないことが大切だ。メンタルがそうなってしまうと、一事が万事ですべてそうなってしまう。ずっと楽しかった趣味までもがどうでもよくなっていく。これは俺の体験談でもある。社会参加が難しいということだけで生きることの全てを諦める必要はない。

 タイトルが「学校に行くということ」なのでここからは学校に的を絞ってみる。
 なぜ学校に行く必要があるのか。これはあくまで俺個人の意見だが、学校には「行ったほうがいい」というレベルだと認識している。義務教育にしても、小学校6年間だけでいいのでは? と成人してから思い始めた。
 大人になって社会で求められるのは、適切な態度と言葉遣いくらいのものだろう。そういう意味では国語はある程度大切かもしれない。だが他の主要教科は、小学校くらいの知識で十分生活できる気がする。日常生活で三角形の面積を求めたい時なんてそうはない。ある物質が酸性かアルカリ性かを知りたい状況も皆無だろう。そういう勉強は、将来その分野に進みたい人だけが選んで勉強すればいい。
 ……とまあ、ここまで書いたことはいわゆる極論だが、要するに学校で勉強をしなくてもある程度社会は渡っていける。

 それでも学校という場所に存在意義があるとすれば、「人間関係の勉強」というのが大きいのではないか。
 学校は、親族以外の人間との距離感を勉強するための場だと思う。先生という家族以外の大人、年齢の近い同級生や先輩後輩と人間関係を作っていく。これができなければ社会に出てから、おそらく勉強ができないより苦労するだろう。
 偉そうなことを言っている俺も、学校での人間関係作りには失敗したと思っているタイプだ。先生に介助してもらえなければお手洗いに行くことさえままならず、先生の機嫌を損ねて介助を拒否されたら終わりだという恐怖感が常にあった。特別支援学校の教師と生徒という関係である以上そんなことはあり得ないと今なら分かるが、それでもやっぱりまだ怖い。
 学友たちとの関係についても同じことが言える。好かれるより、嫌われないこと優先で行動していた。嫌われるのと印象に残らないのとだったら後者の方が全然マシだと思っていた。
 その当時はこれが正しい考え方だと信じていたから苦痛に感じることは全くなかった。けれども今にして思えば、現在に至るまでこの考えを引きずってしまっていることが残念でならない。もう少し、他人と積極的に関わったり自分の意見をしっかりと言ったりすればよかったと思う。
 学校というものはたぶん、俺のようなコミュニケーション弱者を生まないためのところでもあるのだ。しかし逆を言えば「人間関係を学べる場所であれば必ずしも学校である必要もない」とも言えるのではないだろうか。だからこそ最近はフリースクールなど、学校ではないけれど学校と同じような役割を果たす場所が認知され始めてきたのだろう。

 先ほども言ったように、特に中学から上の勉強なんて一般社会に出て使うことはほぼない。小学生レベルの漢字の読み書き、足し算と引き算、少し例えが悪いが「こんなの小学生でも分かるぞ」というようなことさえ分かっていれば困ることはないだろう(あくまで一般社会に限った話だが)。
 すべてのエッセイを通じてこれまで何度か言っていることだが「この世には命をかけてまでするべきことなんてない」というのが俺の心情だ。もちろん、命をかける思いで挑戦したいことがあるならすればいいし、その心意気は素晴らしい。応援したいとも思う。けれどそれにしたって、現実に命を落としかねないほど気合いを入れてしまったらおそらく成功しない。その前に限界が来て倒れてしまうからだ。
 どんなに大きな夢を叶えるにもまずやるべきことは、心身の健康を守ること。話はそれからだ。無理して学校や職場に行って体調を崩すくらいなら、一旦休むとか離れるという選択肢を取ることは絶対に悪ではない。気持ちの微妙な揺らぎからくる体調の変化なんて、経験したことのない人には分からないのだ。何か言いたいやつには言わせておけばいい。

 ここまで長くなったが、最後にこれからに向けてふたつほどメッセージを届けたい。
 まずは、味方を作ること。親でもいいし、信頼できる友人でもいい。自分の現状を100%理解してもらう必要はない(そんなことはたとえ親でも不可能だ)。理解してくれようとする人を見つければいいのだ。俺にとってそれは母であり、親友のNさんであり、やり取りしてくれるフォロワーさんたちである。
 もうひとつは、気持ちだけは持っておくこと。「いつかは学校に行くんだ」とか、もっと言えば「自分で稼いだお金で推し活するぞ」とかそういうざっくりしたものでいい。漠然とでいいから目標を持っておくこと。そして落ち込んだ時には遠慮なく逃げたらいい。落ち着いた時に、その目標はまたひょっこり姿を現すはずだ。そうなったらもう諦める必要はなくなる。
 結局何が言いたいのかよく分からなくなってしまったが要は「こんな考え方でも25歳までなんとか生きてるよ!」ということが言いたかった。身体障がい者の俺でさえ、なんとか毎日生きる希望を見つけられている。この文章を読んでいるみなさんなら、考え方さえ間違えなければ明るく生きていけるはずだ。多様性の時代でもあるし、生き方のスタイルは無限にあっていい。そのことに気づければ人生丸儲けだろう。

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