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書評:諧謔、ときどき死|岡野大嗣『サイレンと犀』書肆侃侃房/2014

歌人・岡野大嗣の第一歌集。岡野大嗣は、1980年大阪生まれ。2014年に、連作『選択と削除』で第67回短歌研究新人賞次席。

木下龍也との共著歌集『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』を以前読んで、何か自分と相性が良さそうなイメージがあったので、この歌集も手にとってみた。

岡野大嗣の短歌の大きな特徴の一つは諧謔なのではないかな、と思う。穂村弘は、『はじめての短歌』などで短歌における「驚異から共感」の重要性を説いているが、その驚異の打撃を、岡野大嗣は諧謔を用いて与えようとしているように思う。そしてこの、岡野大嗣の諧謔が総じて心地よいのだ。

過度に自虐に陥ることもなく、過度に小手先のテクニックに陥ることのない諧謔。そして、可笑しさ以外の「何か」がきっちりとまとわりついてくる諧謔。関西風の言い方を使えば「シュッとしている」というのが、私の岡野大嗣の短歌に対するイメージだ。

たとえば、本歌集に収録された連作「マーガレット」の中の一首、

いま虫が口に入って行きました死の瞬間に立ち会いました

大惨事である。誰にでも経験のあるような、あの不愉快な感覚。でも、それを実況風に言われることで、妙な冷静さが生まれて面白くなってくる。口に虫が入ったことを一瞬で諦めて「スンッ」としている男のイメージ。

それから、連作「ショートホープ」の中のこんな歌、

じいさんがゆっくり逃げるばあさんをゆっくりとゆっくりと追いかける

何があった。ビジュアルを想像すると面白い。でも、何があったかまったく分からなくて、少し怖い。

さらには、連作「インターチェンジ」収録の次の一首、

生き延びるために聴いてる音楽が自分で死んだひとのばかりだ

これはある。とてもよくある。Linkin ParkにPrinceに桂枝雀……すぐに何人も思いつく。こういうことに気づいた瞬間、人はきっと皮肉な笑いを顔に浮かべてしまう。そして、たとえば、人間が他の命を食べなければ生きていけない業を背負っているように、自分は何か人の命(もしくは命を賭した表現)を喰らうことで生き延びる業を背負っているのではないか、という焦燥を感じるに違いない。

そう、ここまでに挙げてきた短歌でもわかるように、岡野大嗣の歌にはどこかに常に「死」がつきまとう。「死」およびそれに類する単語も、この歌集の短歌には頻出する。死から目を背けられないような視線。でも、岡野自身は死を志向する気配はない。村山聖の棋譜のような美しいものをよすがとしながら、きっと生き延びようとする。帯に書かれたシンガーソングライター長谷川健一の言葉「死にたいが、生きたい」が、端的にこれを表していると思う。

ああ、そうか、それはもしかしたら、子どもの頃のある一時期、はじめて自分もまた「いつか死ぬ」と知ってからしばらくの間、世界のあらゆることに「死」を見出し、魅入られていた、あの視点に近いのかもしれない。無邪気と思春期のはざまの一瞬の季節からの視点。

だからだろうか、連作「青いキセル」や「みんな雑巾」で描かれる子どもの頃の記憶の風景は、とても鮮やかで、読み手に「仮定の過去の追憶」を起動させる。特に次の一首は本当に美しい。私にもそんな過去があったかのように錯覚してしまいそうだ。

ひとりだけ光って見えるワイシャツの父を吐き出す夏の改札

さて、この歌集評を、連作「馬とランタン」収録の次の一首を紹介して終わろうと思う。短歌で大笑いしたのは初めてである。3度読み返して気づいた瞬間の大笑いは、とても気持ちよかった。そしてきっと、日々こんな「しょーもない」可笑しさに気づく瞬間があるおかげで、私たちは死を感じつつも生き延びているのかもしれない。

「洗濯機、ドライでね」って頼まれてチキン食べたくなっている口

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