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書評:繰り返される生老病死|本間秀子『山茶花の家』砂子屋書房/2010.

書評、と銘打ちつつ、書評らしからぬ導入が続くことを許してほしい。

先日、実家の母と話している時に、自分はこの一年ほど短歌に取り組んでいると伝えた。すると、14年前に亡くなった叔母が高校生の時に学校の短歌クラブに入っていたという話を初めて知った。

さらにその短歌クラブでの叔母の一年後輩(母から見たら一年先輩)の女性とは、新潟大学教育学部新潟分校において母は同じクラスだった話、そしてその女性は歌人であり、出版した歌集を10年以上前にもらったことがある、という話を聞いた。

そうして、押入れを探して出てきたのが、この2冊の歌集だった。

本間秀子『山茶花の家』『山茶花 第二集』

本間秀子は、1933年新潟県の長岡市生まれ。新潟県立中央高校の短歌クラブに所属し、以降、教職を勤めながら投稿歌人として活動。1990年に第一回上田三四二賞(現、上田三四二記念「小野市短歌フォーラム」)の三席に入選。2004年に第一歌集『山茶花』を短歌研究社より出版。2010年には、第二歌集『山茶花の家』と第三歌集『山茶花 第二集』を同時に刊行。2015年ごろ逝去。

……母から聞いた話やネットでの情報に基づいて、歌人・本間秀子の略歴を書くとすればこんな感じだろうか。

歌集を読んでみての正直な感想は、平凡な歌集、と言わざるを得ない。収録されている短歌の多くは、状況の描写(もしくは説明)で終わっており、あまり目を引くものはない。

しかしそれでも、この歌集を読み終えた時には、昭和一桁世代の女性が雪深い地方・新潟において様々な困難や悩みを抱えつつも懸命に生きてきた姿が、はっきりと浮かび上がってくる。本間秀子の歌集とは、短歌とは、そういう類のものだ。

もちろん、収録歌の中には目を引くものもいくつかある。紹介していこう。

本間秀子の出身は雪国新潟の中でもさらに雪深い都市・長岡市である。そんな彼女による、冬の只中や早春の景色の描写は、同じ新潟出身の私にとってリアリティのあるものだ。

昼なれど白き闇なる雪の道きしきしと雪踏みしめて行く

本間秀子「車椅子押す」より(『山茶花の家』収録)

春分の今日越後には小止みなく細かく細かく銀の雨降る

本間秀子「銀の雪降る」より(『山茶花の家』収録)

優しげな夫と二人きりの慎ましやかな生活が、時に寂しく、時にわずかばかりのユーモアを孕んで描かれてゆく。特に「二人のテレビ」という表現は美しいと思う。

文字出れば夫が読みくれ聴き辛きは我れが補ふ二人のテレビ

本間秀子「銀の雪降る」より(『山茶花の家』収録)

「死んでも泣くな」「大泣きするわ」救急車待つ間の夫との会話

本間秀子「どくだみの花」より(『山茶花の家』収録)

「いつ見ても外八文字に歩くね」と笑ひし夫と添ひて老いづく

本間秀子「海の匂い」より(『山茶花の家』収録)

また、本間秀子は、日々の身の回りにある微かにユーモラスな瞬間や感情を、捉えたりもする。

羽化したる蝉の飛び立つ瞬間を猫と見て居り猫をおさえて

本間秀子「老いの看取り」より(『山茶花の家』収録)

買ふか否か楽しみて迷ふ日々ありて衝動買ひではないぞ通販

本間秀子「海の匂い」より(『山茶花の家』収録)

大戦末期の長岡大空襲で焼け出された経験を持つ本間秀子にとって、戦争は忌むべきものであり、それはいくつかの短歌にも顔を出す。しかし一方で自分がふと口ずさむ歌は、幼いころに習った(それしか周りには音曲がなかったのかもしれない)軍歌である、という居心地の悪さを、本間は繰り返し短歌にする。

プランターの土くだきつつ歌ふなり幼な日に覚えし軍歌幾つか

本間秀子「海の匂い」より(『山茶花の家』収録)

幼な日に歌ひし演歌のひとふしを繰り返しつつ草抜きてゆく

本間秀子「墓に日が照る」より(『山茶花の家』収録)

そんな本間の視線は時に、社会への違和感へと注がれる。戦争を経験した世代ならではの批判的な視線は、2022年において振り返るとき少しだけ予見的だ。

葬式もショーの一つかさはやかに言葉つらねて司会者の立つ

本間秀子「投稿歌出す」より(『山茶花の家』収録)

飽食のつけまはり来む世を怖るもの食べ残す子等の未来に

本間秀子「飽食の子等」より(『山茶花の家』収録)

しかし、教職を勤めた本間の根底には優しさの感情が深く根付く。彼女の短歌のいくつかにもそれが現れているように思える。

同級会に出てくるは幸せの人ばかり出て来ぬ子等を思ふ数日

本間秀子「新卒女教師」より(『山茶花の家』収録)

姑さんをやさしく世話する隣人に貰ひし青き夏すみれ咲く

本間秀子「空襲の夜」より(『山茶花の家』収録)

本間は若い時から、そして晩年も病気に悩まされた。またそれゆえに子を持つことを諦めた人生だった。そんな彼女の短歌には、子がいないことの寂しさや、死んだあとを見守る人がいないのではないか、と言う切実な不安感が繰り返し吹き出す。

子も孫も無き老い二人節分の豆まきをする声張り上げて

本間秀子「銀の雪降る」より(『山茶花の家』収録)

蝉時雨激しき墓地に人なくて毀され積まれし墓に日が照る

本間秀子「墓に日が照る」より(『山茶花の家』収録)

そして、彼女の人生の後半を悩ませたのは、愛する母の介護だった。介護疲れののち看取った母の喪失感も深い。その複雑な思いもまた、本間の晩年の短歌の大きなテーマとなる。

なお、本間の短歌には、初句七音や二句や四句での過剰な字余りがよく見られる。言いたいことがあふれていたとも取れるし、何よりそれが本間にとっての落ち着く韻律だったのかもしれない。

点滴に一日中をつながれて真夏日の病院は清潔な檻

本間秀子「老いの看取り」より(『山茶花の家』収録)

納骨のさらさらと母の骨白しつくつく法師が時をりに鳴く

本間秀子「トンネル出れば」より(『山茶花の家』収録)

この歌集、全体のつくりを見渡すと、(作者はおそらくそれを意図していなかったと思われるが)特徴がある。

本間は「あとがき」の中で、年度別の配列も考えたが整理に手間がかかりすぎるため、諦めて投稿先ごとにまとめたと述べている。

そのため、本間の身に起こった事象が繰り返される。墓がないことへの不安感と解決への模索が、趣味の囲碁が好きなのに老いで打てなくなっていくプロセスが、子を持てないことの嘆きが、夫との慎ましい生活が、そして亡き母の介護と看取りと死が、なんどもなんども繰り返えされる

この歌集を読むことがまるで、おそらくは本間秀子の中で繰り返された生老病死を追体験するかのようになっているのだ。

歌集としては凡庸である。だがこのようなつくりゆえにか、読後には胸を打たれるものがある。

この歌集は、昨今の「短歌ブーム」の外にある。たとえば今まさににぎにぎしく開催されている紀伊國屋書店国分寺店での「短詩型フェア なつ空にじいろ自由研究」にこの歌集が並ぶことは決してない。なんなら、印刷された歌集の冊数のうち、新潟県内を出ることができた数すら僅かなのではないかとさえ思う。

それでも、私はこの歌集を「良い歌集」だと信じる。そして、こうしてネット上に本間秀子の短歌をいくつか流そうと思った。少しでもこのほぼ無名の歌人の残した短歌が、後世に残る確率を上げるために、だ。 

こういう歌集がある、ということを短歌を続けていく中で、忘れずにいようと思っている。


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