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何をするのかということ

 先日、美輪明宏さんの「腹六分の人付き合い」というお話をPodcastで聞いて、とても腑に落ちた。きっと以前の私ならば、そんなの水くさい、心を許していない、他人行儀、と思ったはずだ。けれど今は気持ち良く人と付き合えるコツだと思っている。腹六分とは他者との関係性をより良く保つために必要な心積りだ。大切な人だからこそ腹の内をすべて見せようとせず、また相手の内を詮索しない。それは他者への理解あってこその作法のようなもの。自分を守り、相手を尊重するならば、自然と出来ることなのかもしれない。

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 中学校で三者懇談があった。定期テストの計画表を提出していないので出すように言われる。まさかほとんど何も書いていないとは思っておらず、登校前に空欄がたくさんある紙面を見て呆れてしまった。呆れてその紙を前にして途方に暮れる子を見て詰問してしまった。「なぜ書かなかったのか」と。子どもが泣き出してからも厳しい問いは止まらない。冷静になって考えてみると子どもは怖いと思ったところで思考停止してしまい、ただただ怯えて泣いているのだ。
 担任の先生と電話で話した。「書き方が分からないということはないので、次回からは書いていなかったら、こっそり声かけさせてもらいます。」と言われた。
 おそらく子どもは帰宅するとすべてを忘れてゲームをしたり動画を見る。スクリーンタイムの制限を設けてもネットサーフィンをしたりテレビを見て過ごす。学業を私生活に持ち込みたくありません、とばかりに。ゆえにテスト勉強はしないし、計画表など書きようがないのだと思った。それは自分のすべきことを真っ向から否定して、反抗している。その先にある未来を想像して説明しても、めんどくさそうにされる。結局学校を休み、私も欠勤することになり、台所で片付けものをしながら子どもには学校は合わないのではないかと考えてしまった。 
 好きなことを好きなだけできる生活。面倒なことはやらなくてもよい生活。誰にも否定されない生活。そんな都合の良いことなどいつの間にか考えなくなっていたけれど、わりと真面目に子どもは想像しているのかもしれない。

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 そういえば、ときめきとは、かくも砂糖のように甘く溶けやすいのだとまたもや実感している。熱が加わると一気にさっと透明になる。今は溶けきって冷めて鍋にこびりついた何かになりつつある。この間がとても短い。もう少し長く楽しみたいのに、そうはさせてはもらえない。

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 器を拭く布巾がくたびれると、台拭きとして使う。それがくたびれたなら床用やサッシを拭くために使う。くたくたになった布だって最後の最後まで活躍できるのだから、くたびれた私だって、もう少し頑張れるのか。 
 あらためて私は何を頑張りたいのか考えながら路地を歩いたことを思い返す。「一生懸命生きたい」。実にシンプルだけれど、根底にはそれがある、わりとしっかりと。問答法のソクラテスではなくとも誰しもが「一生懸命とは?」と聞いてくるのかもしれない。「誤魔化したり投げ出したり諦めたりせず自分と向き合うこと」、だろうか。すべてのことに向き合えているとは言い難い。しかし努力はしている。そして意志の力の偉大さを知らず知らずのうちに奥歯で噛みしめているのだ。


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