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希望通りじゃなかった道が、自分では想像できない未来につながっていく

今日は前回の続きを。こういう機会がないとなかなか自分の人生をちゃんと振り返ることってないので、すごく自分にとっても大切な時間だなと思いつつ、たまに筆が進まないところもあって。自分のことを改めて書くのって意外と勇気と時間がいるなと思いながら、ぽつぽつと書いています。

そして、今日の話は「ご縁」の話につながっていくのですが、何と明日から出雲大社は「神在祭」なんですね。わたしは出雲大社にたくさんお世話になったのですが、まだそのご縁がつながっていたことを気づかせてもらって、ちょっぴり嬉しい気持ちになったのでした。

神さまをお迎えする「稲佐の浜」

希望通りじゃなかった道が、未来をつくってくれることもある

わたしが新卒で入ったのは大手旅行会社でした。海外旅行で知られている会社だったし、海外旅行が好きだったし、3年で海外支店に行きたいと思っていたのに、まさかの配属は国内旅行部門…。びっくりしすぎて、最寄駅から親に泣きながら電話したことを、今でも鮮明に覚えています。

今思えば、「大きい会社なら事業範囲が広いことが多いから、後々希望部署に異動できる可能性がある」とか、「小さい会社ならそこまで事業が細分化されていないので、意外と希望の仕事にかかわれることがある」とわかるのですが、未来への期待もあった分めちゃくちゃショックだったんですよね。けれど、わたしは結果的に、国内旅行部門にいたことが「未来」につながっていきました。

20代とかやりたいことがまだ明確にないときは、目の前に来たものを一生懸命やってみると、意外と未来への種が見つかったりする気がします。


ちなみに、わたしが最初に抱いた想いは「旅を通して自分の世界を広げる体験を、もっと多くの人に経験してほしい」だったのですが、その「旅」の行き先は海外だけに限らないですよね。

わたしは日本人で、日本に住んでいるのに、まだ全然日本のことを知らなかった。

大学生のときに何回か海外に行ったことで、わたし自身全然日本のことを知らなかったと気づいたし、日本の素晴らしさを語れる人はとても魅力的だったということを思い出したのです。そう思えてからは、同期や店舗の先輩と休みを合わせて、2ヶ月に一回くらいは連休をとって旅行に行っていました。日本って四季があるので、季節ごとに変わりゆく景色の美しさとか旬の素材とか、ビーチリゾートに温泉にスキーにスノボ、同じ場所でも何パターンもの楽しみ方があるんです。

仕事柄パンフレットを毎日眺めているので、行きたい場所は尽きることはないし、国内旅行ならほとんどの場所が3日間あれば行けてしまう。そして、帰ってきたらお客さまにその経験を伝えることができる。やっぱり自分で経験したことは強くて、しかもその場所が自分のお気に入りであれば、成約率もぐんと上がります。自分の「感動」がそのまま価値になるというのはとても嬉しかったし、それこそが無形商材の面白さなのかもと思ったりしていました。

ピーク時期は本当に忙しいし、お給料が高いわけでもなかったけれど、楽しみながら仕事のスキルも上がるし、提供できるサービスの価値が上がっていくので、すごくシンプルに仕事をすることの意味を理解できた職場だったなと思います。toCなので、実際のお客さまと出会うこともできるし、感謝のお手紙やお土産をもらうこともあったりして、すごくやりがいもある。サービス業って職場にいるだけで「ありがとうございます」という言葉がたくさん聞こえるのが、わたしはすごく好きでした。

全部やることの大変さ、裁量権がある楽しさは紙一重

仕事の内容がぐんと変わったのは、4年目で本部に異動になったときでした。ちょうど事業部が大きくなっていくタイミングで、とにかく毎日忙しいけれど新しいことを経験できて、とても成長させてもらった機会でした。

わたしが所属していたのは、首都圏発着の個人型自由旅行商品にまつわる「仕入れ・企画・マーケティング」というなんでもありチームでした。県の観光課や交通課、観光協会、観光施設や宿泊施設の人たちと話しながら、その観光素材を売るための新しい企画を考え、商品化する。Webや新聞、チラシに掲載して、その商品の魅力をお客さまに伝える。店舗スタッフへの情報共有や在庫調整、出発案内などのオペレーション管理。そして、実際に現地を訪れたお客さまの様子を取引先の人たちが教えてくれて、改善したり次の企画に生かしたり。すべての業務を一貫して担当していたからこそわかる、仕事の面白さでした。

「仕入れ」って、自分たちの商品を「(自分たちのお客さまにとって)一番いい形で提供するために、取引先と条件交渉をすること」だと思うのですが、わたしはこれが本当に苦手で。大手企業で実績があれば名前だけで話を聞いてもらえたりするし、その人自身に豊富な経験があればまた違うのですが、20代そこそこの女子が地方の有名な施設さんに対して電話だけで契約交渉をするのって、すごくハードルが高かったのです。けれど、この経験こそが一番わたしが人間として磨かれる時間だったのですよね。

実績や経験がないなら、素直に「なぜ御社と取引したいと思っているか」とか「自社の将来性」について話すしかない。もしそこで期待を持ってわたしに賭けてくれる人がいたら、その人に精一杯お返しできるよう実績で応えるしかない。わたしという人間をいかに魅力的だと思ってもらえるか、そして信頼に値すると思ってもらえるか、そういうことをいつも考えていた気がします。いつの間にかその信頼は次のつながりを生んでくれていて、地方のほうが一旦溶け込むと「紹介」というかたちでどんどん人脈の輪が広がっていきました。

それから、当時の上司が教えてくれた言葉は本当だったなぁと。

「何かをはじめるということはとても大変だし苦労することも多いけれど、最初の人にしか見えない景色が絶対あるから」

一人で右も左も分からないながらに飛び込んだことで、少しずつ応援してくれる人が増えて、可愛がってくれて、お客さまが増えたことを一緒に喜んでくれて。その道のりを一緒に歩いてくれた人って、やっぱり特別なつながりになるなと思ったのでした。


「商品企画」は仕入れた素材をいかに輝かせるか、「マーケティング」はその流通をどれだけ最大価値にできるか、だと思うのですが、ここはもう「仕入れ」を自分がやっていることで、自然と起きてくるんですよね。普通の大企業だったら、これらはすべて別の人が担当しているので責任が曖昧だったりするのですが、ここではすべて自分が担当しているので、言い訳ができない。とにかく常に新しい網を投げ続けて、反応が良ければ磨く、芽が出なければ新しい漁場を探す。それをずっと繰り返しているうちに少しずつ数字が大きくなっていく、という感じだった気がします。
それからここは「仕入れ」と違って、デザインとかメッセージ性といった自分の得意分野が活かせたし、わたし自身がターゲット顧客の属性に近いということもあって、先輩たちには出せないわたしらしさがプラス価値になって、とにかく楽しかったなという印象でした。


「商品企画」とか「マーケティング」って聞こえは華やかだし、花形っぽい感じがするけれど、実際はめちゃくちゃ泥臭くて地道な仕事も多いのが実情。けれど、そういうこともあわせ飲んで、それでも何か生み出すことをやりたい人は、一回やってみるとすごく自分が成長できる職種だなと思います。そして「仕入れ」という商品になる前の素材の物語を知る機会があれば、それらはもっと楽しい仕事になる、とわたしは思っています。

すべてはご縁。今わたしがここでこの仕事をしている意味が必ずある

旅を重ね、地域の人たちと一緒に仕事をするようになったことで、わたしは改めて日本の良さに気づくだけでなく、その土地の歴史や文化、空気感が生み出す何か特別なものがある、ということに気づき出すのです。

わたしが最後に担当していたのは中四国地区だったのですが、ちょうど色々な節目があるときで。(パッと聞くと地味なエリアに感じるかもですが)古事記や空海からつながる歴史があり、神道と仏教の香りが今でも生活に残っていたり、近代化の煽りをうけつつも、日本の美しい原風景が残された貴重なエリアでもあり、すごく素敵な場所でした。

  • 出雲大社の遷宮(島根)

  • 戦後70周年記念式典(広島)

  • 大河ドラマ「花燃ゆ」(山口)

  • 四国霊場開創/お遍路さん1200年(四国)

  • 瀬戸内国際芸術祭(香川・岡山)

わたしが本格的に地域に根ざした商品をつくるようになったのは出雲大社の遷宮からなのですが、出会う人出逢う人が「ご縁だね」と言ってくれて、しかもわたしが担当していたのがまるまる遷宮期間だったこともあり「あなたは呼ばれてここに来たんだね」と本当によくしてもらったのです。そして、わたしのバトンを受け継ぐ後輩は、なんと遷宮の日が誕生日の子でした。

こういうことを経て、旅をすることは人と土地のエネルギー交換でもあり、人生を前に進めてくれるものなのだなということに気づいていくのです。

人がいなくなった町は枯れていきます。けれど、人も同じところにずっといるとエネルギーが滞ってしまいます。土地は動かないけれど、人は土地のエネルギーを動かすことができる。人も旅に出ることで、新しいエネルギーに触れ、人生のきっかけを掴むことができる。そうやって、人と土地は支え合ってきたような気がするのです。そして人と同じように、土地にもエネルギーの波があって、やっぱり何かの記念年って注目されることですごく賑やかになるし、町も元気になる感じがしました。

わたしは送客数とか売上を伸ばすためにこの仕事をしているのではなくて、必要な人たちの、必要な出会いを生み出しているのかもしれない…

そう思えたときに、旅行業の見方が変わって、同時に送客数も売上も自然と伸びるようになったのです。自分の仕事の大いなる目的に気づくと、そもそも視点が変わってくるので、取り入れられる力も変わってくるし、そうすると手前の成果は自動的についてくるのかも?と思った経験でした。


当時出会った小説「県庁おもてなし課」にも、「観光とは、光を観ること」という話が出てくるのですが、この小説にもヒントをもらったのですね。

有川(作者):観光って、「来て、見て、帰る」では、もうダメな時代になってると思うんですよね。物語が欲しいんですよ。その土地に行ったことによる物語を、お土産に持って帰りたいんです。
例えば、馬路村に簡単に行けたら、物語にならないんですよ。アクセスの不便さこそが、物語になる。観光客は、物語を体験しに来てるんですね。

金丸(おもてなし課):今後の観光産業における物語の必要性は、僕もすごく痛感しています。ようするに、地域の歴史とか文化っていうのは、物語じゃないですか。物語を作って発信するには、歴史や文化をちゃんと見直せばいい、それだけのことです。

その土地の物語を体験することが観光であって、文化や歴史に触れ、その場所がどういう未来に向かっていくのかを見つめてみる。そして、そういう流れの中に自分がご縁をいただいて、今そこに立っているのだと思えば、その旅自体も「自分を発見していくひとつの機会」にできるのではないか。今はそんなふうに思い始めています。


それから、ちょうどこのくらいの時期に気づき始めたのが、「仕事を進めるスキル」と「それを扱う人間力」は両方一緒に磨かないといけないということ。物理的に身につけないといけないスキルとか思考力ってあると思うんですが、それだけでは十分ではなくて。会社に勤めていると忘れがちになるのですが、一人で行ける範囲は限られているからこそ誰かを巻き込む力が必要だし、ビジョンを掲げる側こそ本質的な仕事の意味を問い続けることが大事だよな、と会社からの帰り道にふと考えたりしていたのでした。

▼あとで見て「そうそうそういうこと!」って思ったyujiさんの記事

人が仕事の中に「楽しみ」を見出す瞬間って素晴らしい

ただでさえ日常業務で忙しいのに、新しい人が入ってくるとよく最初の教育係になっていて。基本的に人件費は人が増えた瞬間からかかるので、教える側は一時的に仕事が2倍になるくらいの覚悟と忍耐がいる仕事だと思うのですが、結果的には学ぶことがとても多くて、人が「芽吹く」瞬間にたくさん出会えたこともわたしの未来につながっていきました。

この場合の「新しい人」は主に異動者なのですが、ほとんどの人が「前の部署が嫌」だから異動しているわけで、「この部署にくることが望み」とは限らないんです。けれどここにいる限りは1人分の仕事を担ってもらわないといけない。前述したように「スキル」とかはもう身につけてもらうしかないので置いておいて、どうやってその人の心に火をつけるか、をいつも考えていたような気がします。

  • まずはわたしの仕事を見てもらって、「これから自分がやる仕事は、なんだか楽しそう」と感じてもらうこと

  • 地域の面白い人たちに会ったり、美しい景色を見たり、地元ならではの食に触れたり、その時期だけの特別さを知ることで、「自分の仕事がデスク上で完結しているわけじゃない」と知ってもらうこと

  • その人が日々やっていることや小さな変化を見逃さないこと

人って、自分のことをちゃんと見てくれている人が1人いるだけで頑張れるもの。そして、心に火がついたら、自然と必要なことを学ぶようになるので、実力って勝手についてくるものだと思っていて(もちろん向き不向きはあるかもしれないけれど)。そして、その人が「この仕事めっちゃ楽しいかも」「これってわたしがやる仕事だ」そんなふうに思える瞬間に出会ったときにはわたしも本当に嬉しいし、大変なことも報われるなと思ったのです。

後から聞いた話では、当時の本部長が「最初はあの子のそばに置いて欲しい。あの子が教えた子は辞めんから」と言っていたそうで、あぁどこかでわたしのことを見ている人もいたのだな、と思ったのでした。

宝塚の人がよく言うように、「辞めどき」はわかる

わたしは生まれが宝塚市なのですが、宝塚歌劇団のスターたちって辞めどきがわかるらしいです。これ、わたしも同じような気持ちになったので、そういう「降ってくる」感覚ってあるんだと思います。

わたしがやれることはやり切った気がする。
この地区はそろそろ別の人がやった方が、新しい風が入って、見せ方の幅が増えたり、数字も伸びるはず。
わたしも、ここで一通り仕事をやれる力は身についた気がするし、1年後ここにいたら新しい自分は生まれてこない感じがする。
次の環境に行かないといけないのかもな。

それまでやってもやっても終わらなかった仕事が、急の手の内に収まるようになってしまい、こんなふうに思った瞬間があったのです。

それから、その土地と人の巡り合わせや、その意義がわかってしまったときに、(人間的な)利益重視の判断やキャンペーンを疑問に思うようになっていた、というのもありました。これは有川浩さんの『阪急電車』の中に出てくる言葉なのですが、当時のわたしには意外と刺さってきて。

「価値観の違う奴とは、辛いと思えるうちに離れといたほうがええねん。無理に合わせて一緒におったら、自分もそっち側の価値観に慣れてまうから」

あとは、激務すぎて30代になったときこの会社にいるのは無理だな…という確信めいたものがあったから。みんなが家庭崩壊すぎて、ここにいたら幸せな家庭を築くのは無理かも…と思ったのもありました。

わたしの中にある、小さな違和感を放置するのはやめよう

そうして「今の自分にできる仕事」ではなく、「本当に自分がやりたいことを見つけるため」に会社を辞めることを決めました。

実は、この会社で最後につくったパンフレットが「瀬戸内島旅」というパンフレットなのですが、このことをきっかけに瀬戸内国際芸術祭のことを知り、友人と直島に訪れ、その旅を通してわたし自身が次へのきっかけを得ることになるのです。

そして、次の転職先を決めることなく、とりあえず1年はわたしの次のステップを見つけるための時間にしよう、と決めて、会社を辞めたのでした。


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