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「表現と対話の場づくりをしたい…!」わたしの想いがひとつのカタチになった日。

こないだは、今まで取り組んでこなかったこと・これからやりたいことに向き合っている「今」のありのままの気持ちを書いてみたのですが、その中でもわたしがずーっとやりたいと思っていたことがひとつカタチになったので、今日はそのことを綴ってみようと思います。


私たちは圧倒的にインプットの多い世界に生きている

実は、デンマークから帰ってきて、一番しんどかったのが「情報の多さ」でした。

ただ夕日を眺めることの幸せに浸る

テレビを見る機会は圧倒的に減ったけれど、それでもSNSや広告を通じて常に情報が注がれ続ける日々。他にもアウトプットよりも、「大人の学び直し」とか「リスキリング」とか、新しいものを「身につける(インプットする)」ことが推奨されている世界なのだと改めて実感したのです。

もちろん人生を歩んでいくうえで、新しい知識や出逢いを求めるのはすごく素敵なことだと思う。けれど、どうもバランスが悪いような感じがする…。少なくともわたしは、アウトプットするのがとても苦手で、今までそういう機会を持ってこなかった人間でした。

けれど、心やカラダについて学んでいくほどに、アウトプットする機会の少なさや、一方でその重要さに気づいて呆然とさせられることが多かったのです。呼吸だって「吐いて」「吸う」だし、ずっと吸っているわけではないですよね。なのに、情報だけは入れるばっかりになっている人、意外と多いのではないでしょうか…??

「アウトプットする」ってどういうこと?

アウトプットはインプット(「入力」)の対義語で、元は「出力」という意味ですが、今では「学習や経験によって得た学びを、発信したり活動に反映させること」という意味でも使われるようになりました。

けれど、わたしの場合はもっと広範囲に捉えて、「何かに触れて感じたこと・日々思っていることを外に出してみること」というイメージを持っています。「自分を表現すること」と言うほうが近いかもしれません。

そして、そんなわたしのアウトプットを阻んでいたのは「完璧主義」でした。

日本の教育は長年「正解を答える」という前提で行われてきたので、どうしてもその影響を受けている人は多いと思うのです。けれど本当はアウトプットって「一度に」「完璧に」出す必要ってないはずで。出してみるからわかることがあるし、何か違うと思ったならばその違和感を逆に見つめてみたり、ときには更新していけばいいもの。そして、出してみたことで出逢える「何か」もきっとあるはずなのです。

ちなみに英語だってこの呪いが解けたら、もっと日本人で英語を話せる人って増えるのでは?と思ったりしています。

そして、アウトプット(表現)の方法も人によって違っていいと思っています。

・文字にして書いてみる
・絵に描いてみる
・言葉にして伝えてみる
・人に話してみる(離す・放す)
・音楽を奏でる(歌うこと)
・身体で表現してみる(踊る・運動する)

ここに挙げたのはきっとほんの一部で、何かしらその人に合う表現方法というものがあるはずで。そして「表現すること」は、アーティストだけのものではなくて、心地よく健康に生きるためにきっと全員にとって必要なことだと思うのです。今この瞬間の嬉しい気持ちとか、あのとき押し込んでしまった感情とか、伝えたかった言葉とか。そういうのって日々の忙しさのなかで通り過ぎてしまうけれど、意外とカラダの中に染み込んでいて、外に出て誰かに(一番は自分に)認めてもらうことを待っていることってあるんだと思っています。

けれど、そういう機会って意外と少ない。なので、そういうことが自由にできる安心感のある場所をつくりたいと思うようになったのです。

アートに触れることで、「誰かの正解」から解放される気がする

そして、その表現のなかでも、今回は「絵を描くこと」「話すこと」を今回のテーマにすることにしました。

わたし自身は元々アートに興味があったわけではなく、美術館にもほとんど行ったことがなくて。正確に言うと、旅先で観光地のひとつとして訪れることはあったけれど、東京の美術館に日常的に行くことってなかったのです。けれど、ベネッセアートサイト直島を訪れて、地中美術館に興味を持って、そこから色々調べるうちに少しずつアートの面白さや奥深さに出会ってしまい、いつの間にか芸大で学ぶまでになっていた、と言う感じでした。

地中美術館の中でもわたしのお気に入りの場所

ちょうどコロナ禍ということもあり、通信制で京都芸術大学に通っていたのですが、芸術史や美術理論について学べば学ぶほど、見えてきたのはまた違う世界で。少なくともかつての「美術」の授業とは程遠かったのです。

|その人が見ていた世界を映しとったものがアート
例えば、草間彌生さんの水玉の作品とか。あのドットは、本当に草間さんが見ている世界にドットがあったから、そのままそれらを外の世界に取り出したものが作品になっていたりします。

他にも、自画像とかって自分を見つめる方法と言われたりしますが、「絵を描くこと」は、自分と世界ととことん向き合う行為だったのかもしれない、とわたしは感じたのでした。

芸術家たちのまなざしを通して、私たちは「色ってなんだろう?」「線をどう描くのか?」「光をどう捉えるのか?」そんなシンプルな問いの、驚くほどの深さを知ることができます。そしてその作品たちを通して、私たちは彼らが生きた時代やその人生に触れることができる、とも思っているのです。

|芸術は、大きな流れで見ると見え方が変わる
わたしは「印象派」あたりからの絵画が好きなのですが、それは一番「ものの見方」を人々が更新し続けていた時代だから。

この時代の1番の衝撃は「写真」が登場したこと。それによって、画家たちはそのまま「目の前にあるものを写しとって描く」のではなく、「自分のものの見方で描く」と言うことが求められるようになります。

そして、今回の旅の中でヨーロッパの美術館をたくさん訪れる中で、知らなかったアーティストたちのつながりが見えたりして。それまでは「モネ」とか「ゴッホ」とか一人ひとりのアーティストを中心に見ていたけれど、彼らはけっして一人では生きていたわけではなく、大きな時代の流れのなかで、人としての交流、師事・私淑を通して受け継がれていったものがあったことに気づいたのです。(そして、私たちもその流れの延長線上に生きているということも)

|「ものの見方」に正解はない
アートに触れていると「ものの見方」には正解がないし、そもそも私たちの人生において「ひとつの正解」を求めることから解放されるように感じるのです。ベネッセアートサイト直島の人と一緒に仕事をする中で教わったのは、「作品を触媒にして自分の変化を知ることができる」「人と一緒に鑑賞するなかで生まれる違いが面白さになる」ということでした。

たしかに絵の「情報」を元に見る見方もあるし、それがいわゆる「歴史」や「美術」の授業に近いものなのだと思うのですが、タイトルや解説をあえて見ないで「作品と向き合う」こともできるんです。(ちなみに最近の展示はけっこうストーリー仕立てで解説が面白いものもたくさんあると思います。わたしは昔を知らないけれど…)

だからこそ、そういう楽しみ方があることを知ってほしいし、知識を通して「正解」を探すのではない鑑賞体験をしてほしいと思っているのです。そしてその楽しさや自由さの先には、自分の世界との向き合い方さえも変わってくる気がするのです。

ひとりじゃないなら頑張れる…!さっちゃんとの出会い

「さっちゃん」とは、7月にデンマークのフォルケホイスコーレで出逢って、東京に戻ってきて家が近かったこともあり、私たちが欲しい場所をつくってみようか、という一言からすべて始まりました。

久しぶりのご飯のあと、さっちゃんが取り出したのは紙とクレヨン!!

「クレヨンと紙、持ってきた!」
「え?今日?」
「お絵描きしようよ。」

という流れで、深夜の公園でおしゃべりしながら、スケッチブックに絵を描きあったのでした。外が暗いのであんまり色が見えないのが逆に面白くて、帰国してからのあれこれや、これからのことを話しながら、ただひたすら紙のうえで手を動かして色を塗っていく、時間を忘れるようなひとときでした。

8月の土曜夜23時すぎのお絵描き(笑)

「この色好きなんだよね。いつもこの色選んじゃう」
「もう自分の中にある色なんだろうね」
「うん、もうずっと好きな色。光の色と海の色」
「なんか太陽がさしてきてる感じするね」

「わたし気持ちが詰まっていくと原色になっていくんだよね笑」
「エネルギーあり余ってそうだよね」
「消化不良なのかも。もっとちゃんと使って、流していきたい感じがする」
「絵を描くことで昇華してるんだね」

「おしゃべりしながら描くって楽しいね」
「もっとやりたいよね」
「もっといろんな人にもこの楽しさ、知ってほしいよね」

その勢いで箱根に行くことを決め、イベントをやる日をざっくり決め、イメージを膨らませる&コンテンツを考えるための合宿をしたのです。

緑が見えるテラス
絵のお花が咲いているみたい
空と海と緑が混ざり合う世界

そして、10月の1週目の週末。はじめての企画をつくってみたら、みんながとてもいい時間だと言ってくれたのです。

やりたいことはある。
それをやるためのスキルも身につけてきた。
けれど、カタチにする何かが足りない。

わたしはずっと、こんなループにハマっていた気がします。ずっと「時間ができたらやりたい」「いつかやりたい」と言いながら、自分ひとりでやるのが不安だったんだなと。ひとつはうまくいかなかったときにひとりで抱え込まないといけないから。もう一つは、誰かとわいわい話しながら企画をつくっていく方がずっと楽しく広がりができると言うことを知っていたから。

けれど踏み出してみた先はとっても優しい世界で、さっちゃんからも参加者の皆さまからも嬉しい言葉をいただけて、頑張ってカタチにしてみてよかったと思えたのです。

踏み出してみればなんてことはない。旅を通して気づいたことを、今は自分の企画に対しても同じことを感じています。

これからは、企画を続けていくこと、より良いものにしていく工夫、もっと多くの機会をつくっていくことに挑戦してみたいなと思っています。

今日もお読みいただき、ありがとうございました。



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