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今の自分をそのまま表現しながら生きていく方がずっと健やかな気がする ー2度目の北海道フォルケから感じたことー

2021年7月に参加者としてはじめて訪れたCompath。1年を経て、今度は運営サポーターとして参加することに。短かったようで想像以上にじんわり感じることの多かった8日間、秋の優しい北海道の景色と参加者の雰囲気も相まって1年前とはまったく違う経験がそこにありました。

北海道一高い山・大雪山
忠別湖に光が反射してキレイすぎた

今回のテーマは「私の中のうつくしさを編む」。
秋にぴったりだし何だかわたしっぽいテーマで、あぁきっとこれは参加するタイミングだったんだなと自分でも思うくらい。

あと半年で通信制の芸大を卒業することもあり、この機会に「うつくしさってなんだろう」ということを考えてみたいと思いつつも、結局は「何者でもないわたし」と向き合い、次に向かうきっかけをもらった8日間でした。

【目から感じる美】自分のものの見方が仕事になるということ

1つ目の授業は写真家・安永ケンタウロスさんのワークショップ。安永さんが見せてくれた写真はもちろん美しかったけれど、それ以上に、安永さんの「ものの見方」が素晴らしくて。最初はオーダーされるように撮影をしていたけれど、一方で水や風景など好きなものの写真を撮り続けていたら、そのうちに自分の目線で撮ったものが仕事になり、最近ではおまかせの仕事が増えてきたんだそう。

印象的だったいくつかの仕事の中に「星のや京都」の撮影があって、安永さんはそこでものの見方を教わったそう。それは「小細工をしないこと」と「その空間に入ったときの、そのままの感覚を写真に取り込むこと」。目に見えるものだけでなく、相手の在り方や佇まいまで含めて写真の中に表現するって、撮影する側の人間性や感性が伴っていないとできないことだと思うのです。

写真は、自分に求められていることを解く試行錯誤の作業。「陽の光」や「ものの配置」だけでなく、次の瞬間に何が起こるかまで含めてすべて計算したうえで、最後は直感に任せるんだそう。「その瞬間」にどれだけ自分が反応できるかだと話されていました。

心が動いたときにちゃんと反応できることってすごく大切で、自分の声を聞くためには大人は訓練しないといけないと思うんです。
筋トレみたいなやつですね(笑)

色々な経験があって変化はグラデーションのように起きていたけれど、自分のスタイルが大きく変わったのは東川に移住したタイミングだそう。自然に近い場所に身を置いていることで、感覚が研ぎ澄まされる感じがするらしい。これって職人からアーティストへの転換みたいだなぁと。

何を選んで、何を切り捨てるか。
「捨てないと入ってこない」これは絶対的な宇宙の法則なんです。
本当に自分が気になった部分だけを抽出すると、繊細になっていく。
伝えたいことは基本的にワンワードだから、それを伝えるためにいろんなものを削ぎ落とすんです。

撮った写真は見れば見るほど自分で、1枚1枚を見ているときはわからなくてもコンタクトシートなど集合体を見ると明らかだそう。撮り続ける中で、もう1人の自分と会話する機会を持つこと、あとはより純度を高めるだけ。と話されていたのもとても印象的でした。

写真って人のエネルギーを引き出す価値があるんですよ。
目の前に見えている事象はただ起きているだけで、そこに自分がどういう感情を持つかということ。
だから、撮っている間は、なんで自分がそれを良いと思うかだけにフォーカスしているんです。

最終的には愛だと思う。
人もそうだし、商品ひとつをとってもそう。
そこに込められた愛を、ちゃんと読み解くということ。

「うつくしさ」を語るうちに「愛」にたどり着くという、2日目にして驚くほどの濃い時間がそこにはあって。技術の話うんぬんではなく、人としての在り方やそこに込められた想いに触れられる瞬間って、本当に豊かだなと思ったのです。

そして、これらの授業を担当している講師の方々が本当に素敵な人ばかりで、直接的な対話の時間は2・3時間に過ぎないけれど、1週間という限られたプログラムの中において自分の人生を考えさせられるフックというかスパイスになっているのがすごいなと感じたのでした。

【手から感じる美】いろんな風が吹いて今日という1日がある

この日は、お箸づくりと工房めぐり。WOODWORKの社長さんによると、お箸づくりは木工と同じ工程をたどっているそう。木を選んで、削って、磨いて、塗装して。だから、木工を知るのにはとても良い体験なんですとおっしゃっていた。

お箸になる木もそれぞれ個性がある

そのあとは東川町の工房めぐりを。わたしはこれまで実はものづくりにあまり興味がなくて。けれど、ものづくりってこういうことなのかとはじめて腑に落ちたのです。きっかけは東10号工房の遠藤さんのお話から。

遠藤さんは元々サラリーマンをされていたのだけれど、あるお店に出会って、職人さんがカンナで削っている姿を見て、一目惚れして家具屋さんになることを決めたんだそう。

あの店に出会ってなかったら家具屋になってないと思うんですよね。
でも、漠然とした自信はあったし、普段は石橋叩くタイプなのにこのときだけはスイッチが入ってしまったんです。

人の人生って、どこで転がるかわからないですね。

遠藤さんのお家

その後、遠藤さんはスウェーデンのカペラゴーデンという学校に学びにいくそうなのだけれど、そこを卒業するときに先生からもらった作品を見せてくれて。それは、あなたはここを卒業して、「道具を使ってつくったものでお金を稼ぐ」という一歩を歩み始める、ということを意味しているんだそう。

サラリーマンとして電気部品を売ってたときは雲を掴むような感じだったけれど、ものづくりは仕事としての実感があると話されていて。それから、今の生活は仕事と生活の距離が近い、とも。「スウェーデンの暮らしをもう一度再現したいんですよね」とおっしゃっていて、自分の欲しい暮らしを自分でつくっていけるその生き方こそが豊かだなぁと思ったのです。

いろんな風が吹いて今日という1日があるんです。
大きい風も小さい風も、日々みんなに吹いている。
乗りたい風があったらのってみてもいい。
早いとか遅いとかはない。すべては自分のタイミング。
風が吹かなくたっていいんですよ。
ひとつのことを全うするのも素敵じゃないですか。

工房横のハウスから見えた景色

【生活の中の美】時代を生き抜いてきたものには、必ずいいところがある

この日は椅子研究家の織田憲嗣先生の授業。その椅子のコレクションはいくつもの美術館に貸し出されているほどなのですが、個人的に面白かったのは椅子よりも織田先生の考え方でした。

日本やアメリカは”スタイリングデザイン”をよくやるんだそう。それはつまり、外見上に手を加えることで、「長く持っていること=古い」と感じさせる仕組みなんだとか。一方で、ドイツ企業のフォルクスワーゲンは”リデザイン”という哲学なので、変えるべきところがあるときだけ変化を加えるんだそう。

「今の日本は余計なものが余りにも多い」という話も出ていたけれど、今の日本のデザインって、企業主導、マーケティング主導になってしまっているのだなぁと改めて実感させられたのです。それはつまり人とものの関係が希薄になってしまっていることでもあって、「100均で買ったものを20年使えますか?」と言われ言葉に詰まってしまったのです。

わたしも知らなかったのだけれど、日本は先進国で唯一デザインミュージアムがない国なんだそう(もはや日本を先進国と呼んでいいのか戸惑うけれど)。日本において、アートの管轄は文化庁、デザインの管轄は経産省。つまり、アートは希少性があって崇高なものと認める一方で、デザインの芸術性を認めていない国もあるんだとか。デザインは「多くあること」が本質だけれど、それを「価値がない」と捉えていたのが日本。ゼムクリップができたのは1800年代だけれど、ずっとそのカタチは変わっていない。そういうデザインのすごさに敬意を払う姿勢を見落としていたことに気づくとともに、「僕が見て、美しいと思うものを後世に残したい」という織田先生の言葉は本当に偉大だなと思うし、とても響くものがあったのです。

【私の中の”うつくしさ”を編む】人との関係の中で、自分の生かし方を知る

この日の朝はちょっとモヤモヤしていて。ぼんやり風景を眺めていたら、「わたしがいてもいなくても同じ風景だけれど、わたしもその中の一部として存在している」ということに気がついたのです。晴れでも雨でもなくはっきりしない感じ、それでもそのなかに美しさはある、と。

1週間を通して感じたことを振り返る

最後の授業を担当されていたパバンティの塚越さちさんが、肩書きは何者でもいいというお話をされていて。

「こんなことできますか?」「できますよ」
人と知り合っていくなかで自分を生かしていく方法を知るんです。ここは、人との関係が、顔が見える距離なので、それができるんですよね。

私のお店”パバンティ”はより良くするという意味なんです。
古き良きものをより良くしていくイメージで、つくり続けるのではなく使い続けるために、このお店がお役に立てたらいいですよね。

もう一つ、さちさんが紹介してくれた素敵な詩が印象に残っていて。ドイツの詩人ノヴァーリスの言葉だそうで、わかるようでわからないとても不思議な魅力を持つ詩だなぁと思ったのです。

「すべてのみえるものは、みえないものにさわっている。
きこえるものは、きこえないものにさわっている。
感じられるものは、感じられないものにさわっている。
おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているだろう」

あえて「何者でもない」ということを決めてしまうという方法もあるのか、と。見えるものだけで何かを判断したり解決しようと無理に思わなくていいのかもなぁと思ったのでした。

最後に、この1週間で感じた「私の中のうつくしさ」を詩にまとめるワークがあったので、まとまらないながらもここにも書き残そうと思います(笑)

ただこのままであるということを
ただそのままにしておくということを
どうして私たちは忘れてしまうのだろう

どうしていつも考えてしまうのだろう
どうして何かをめざしてしまうのだろう
どうして何者かになろうとしてしまうのだろう

ただこのままで、ただそのままで、こんなにも豊かだというのに
ただこのままで、ただそのままで、こんなにも美しいというのに

いまこの瞬間をただ生きることを
いまこの瞬間をそのまま許すことを
少しずつ受け入れ、愛することができますように

【番外編】これは王国のかぎ

実は今回pagewoodさんという児童書の本屋さんが、アンケートを元に、参加者全員に選書をしてくれていたのです。で、そこで借りた本はさておき(笑)、その本屋さんで懐かしい本を見つけて思わず買って帰ってきてしまったのです。

私が大好きな荻原規子さんの本。失恋してアラビアンナイトの世界に飛び込んだ中学生が、そこに生きる人たちと旅をしていくお話。主人公が砂漠ではじめて出会った元王子ハールーンが吐いたセリフが今でも響くから不思議だなぁと(笑)

「だれもが自分の主だよ、ジャニ。おれはおれだけの主だ。だから自分の好きなことをする。ただそれだけのことだよ」

主人公の「ひろみ」は、迷い込んだアラビアンナイトの世界から出る方法を探して旅をしていくのですが、終盤で世界には「外」と「内」が存在することに気づくのです(『千夜一夜物語』のような構造)。「外」と「内」がわかるということは「扉」を知っているということ、そしてその扉を開く「かぎ」は「わたし」だったということ。

自分と世界とに気づくことができれば、いつでもその扉は自分の手で開くことができるし、扉は閉じるためではなく次に行くための区切りとして存在しているだけなのかもなぁと思わされたのでした。

その人がその人としてその瞬間を生きていることが”うつくしい”

今回は参加者も本当に優しい人が多くて、授業も愛が溢れるものが多くて。先生や保育士、医療、福祉など人をケアする人たちはいつも人のことを考えていて、考えすぎてしまうからこそ、自分のことをおざなりにしてしんどくなってしまうこともあるのかもしれないなぁと。

けれど、この1週間で「まずは自分を大切にすること」「素直な気持ちで人と関わること」を優先したことで、緩んで行くのが日に日に目に見えてわかるような気がしました。みんながポツポツ話してくれる人生の話が本当に尊いもので、話しているうちに涙がポロポロ溢れる姿に本当にもらい泣きしっぱなしで。いろんな感情に向き合って、分け合って流して、また晴れやかな気持ちで日常に戻っていく姿はこちらまで勇気がもらえるものだったのです。

そして、最後にもらったニーズカードにもすごく嬉しい言葉がたくさんあって。肩書きじゃない自分のことを言語化してもらえるって、すごくありがたいし、これから歩んでいく財産だなぁと思いました。

・愛がある人。そこにいるだけで暖かい、ひだまりみたいな感じ
・いろんなことを肯定してくれるのがとても嬉しかった
・何者でもないかもしれないけれど、ちゃんと自分の足で立っている

1週間を通して改めて感じたことは、人間が表現することはすごく美しいのだということ。「うつくしい」という言葉は、「きれい」という言葉とも違っていて、「うつくしい」の方が色んなものを含んでいる感じ。それから「うつくしい」って一見高尚に見えるけれど、実は衣食住よりもっと根源的なものなのかもしれないなと。人間が生きていく中で、表現って絶対に必要なものだと私は思っていて、ちゃんと生きている私を表現していく生き方ってとても健やかだと思うのです。そして、そのためには「自分を知るということ」、そして「その自分を分け合える他者がいてくれるということ」も必要なのではないかと思っています。

工作の時間みたいな創作の時間

たった1週間の生活だったけれど、日常の中で疲弊したり、余白がなくて濁ってしまっていた優しい人たちの優しさが、流して流れて、その人の中に元々あった「うつくしさ」がもっと花開いたような気がして。ありがとうの連鎖、優しさの連鎖は起きるし、わたしたちが住む世界は必ず私たちの手で変えていけると信じられるような、本当にいいプログラムでした。

出会って2時間くらいで生まれた優しい集まり

ワークにはほぼ参加しつつも運営のお仕事もさせていただきつつで、2回目で少し違って見えたCompathのプログラムは、1回目とはまた全然違って、けれど今のわたしにとって必要なことがたくさんあるいい時間でした。

次の春、デンマークの3ヶ月を超えたら、今度はわたしも生み出す側にまわれていたらいいなぁ。

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