表現にまつわる二つの能力

 表現の能力には少なくとも二つの要素があると思う。
・感じる能力(感性)
・感じたものを形にする能力(技術)

 よく、芸術の分野では、個性が大事だとか独創性がないといけないとか言われる。
 でも実際世間で話題になっているものは「皆が共感できるもの」であることが多い。それを産み出すには一種の「平凡な感性」か「平凡な感性への理解」を必要とする、と私には思われる。
 これは、なんだか矛盾しているように感じられる。だから、その矛盾を解くために、最初に私は表現を二つの要素に分けたのだ。

 人の共感を誘う作品を書ける人は、ものごとを感じ取る能力は平凡であっても、それを表現する能力に関しては並外れたものであると思われる。平凡な感性を、非凡な能力によって描く、ということが、人々の共感を誘う、と思うのだ。
 そういう風に考えて行けば、感性が平凡であるか個性的であるかは、人から評価を得るうえでは実のところ一切意味のないことなのではないか、と思われる。感性が平凡であれば共感を得られるし、感性が非凡であれば、芸術性が評価される。
 とすると、表現の世界での優劣のほとんどは、感じたものを表現する能力の高低にかかっているのではないか、と思われる。

 ただこれらは互いに独立したものではなく、繋がっていて、相性の有無も存在する。
 同じテーマで、高度な技術を持って表現しても、使う技術によって完成品への評価は異なる。テーマに相応しい技術、技術に相応しいテーマ、というものが表現の世界にはある。(勘違いしないでほしいのは、ひとつのテーマを表現するのはある一つの技術でやるのが正しい、という意味ではないということだ。本来、ミスマッチであるとされたテーマと技術を組み合わせることによって意外性が産まれ、新しい価値が見いだされるということもあり、そういうのも含めた『相性』の重要性を、私は主張しているのである)

 優れた感性を持っていても、それをうまく表現するだけの技術がなければ、宝の持ち腐れ、ということもある。
 逆に、平凡な感性を持っていても、技術を極めれば、人々の共感を誘う優れた作品を残すことも、当然可能であるというわけだ。


 感性は育てることができる。優れた感性とは、より多くのものを感じ、より多くの解釈を与え、それを自らの趣味によって選別することができる感性である、と私は思う。
 それは技術をきわめるような方法で育てるものではなくて、日々を丁寧に生きたり、多くのものに興味を持って学んでみる、という姿勢が重要であると思う。

 技術の方は、ただひたすら努力あるのみ、であると私は思う。毎日、基礎的な訓練を欠かさず、少しでもよくするために工夫してみたり、新しいことに挑戦してみたり、地道なことの積み重ねであると思う。

 この二つの能力は、何も表現の場だけでなく、基礎的なコミュニケーション能力を構成する要素であると思うので、どのような立場にある人でも、鍛えておいて損はないと思う。

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