単純化しようとする頭

 自分が書いたものを、ふと何もないときに思い出すことがある。
 散歩をしている時でもそうだし、誰かともっとくだらない話で盛り上がっている時でもいい。テレビを仕方なく見ている時でもいいし、ゲームに夢中になっている時でもいい。
 昨日書いたものを思い出すこともあれば、今日書いたものを思い出すこともある。三か月前に書いたものを思い出すこともある。
 そして思い出したとき、急に不安になる。
「ん? もしかして私は途方もなく愚かな、間違ったことを述べてしまったのではないか? とても恥ずかしくて、他の人に顔向けできなくなるような、そんなことを書いてしまったのではないか?」
 そう考える。そしてじっと目をつぶって、自分の書いた文章の断片を思い出す。もっと不安になってくる。
 おぼろげな文章の記憶は、自分の都合の悪いように結合され、それはまるで、私が言わんとしたこととは真逆のことがそこに書かれているかのように、私の認識は作用する。
「大変だ。確認して、問題のある個所を直さないと」
 私はあわててnoteのその記事のページを探し、読み直す。いくつかの誤字脱字を直した後、私はほっと息をつく。私はそんなに馬鹿なことは言っていないし、それどころか、正しいことを正しい方法で述べることができている。分かりにくい部分はあるし、多少誤解を招くような箇所もあるかもしれない。でも間違いなく、それは自覚したうえで、残されたものだ。それがはっきりと感じ取れるくらいには、私はよく考えて文章を書いている。

 そういうことが、ほぼ毎日のように私の頭の中で引き起こされている。自分自身に対する過小評価と不安。そして、実際の自分の文章を読むことによって、自己認識がより詳細になり、安心する。

 たとえその文章が、私という人間の愚かさや誤り、趣味の悪さを示していたとしても、それは私らしいそれであるから、問題はないのだ。私が意図して残したものならば、それによって私のことを嫌いになったり、私の文章を読まなくなる人が生じてきてしまっても、構わないのだ。
 ただ、私の文章が、私の生き方や笑い方や泣き方を妨げるようなことはあってはならない。私や私によく似た人の人生を否定するような文章であってはならない。単純な文章であってはならない。私の憎んでいる彼らと似たような文章であってはならない。それは私と、私の想定する読み手に対する裏切りなのだ。

 記憶というのは厄介なもので、私は頻繁にやってもいないことを「実は自分が忘れているだけで、本当はそういうことをしてしまったのではないか」と不安になる。私はどちらかというとエピソード記憶能力は高い方だと思うが、それでもよく不安になる。だから何度も思い出そうとするし、それでも思い出せない部分は、実際に自分で探して確かめるしかない。

 私の心がかつてどのように動いていたのかは、そこに書かれた文章によってしか示されていないし、それはたいてい私を驚かせる。

 時には、今の私が知っていることより多くのことを知っている私が、過去から私に手を振っている。
「元気ですか。私は元気です」
 過去の私の、未来への配慮は、私にとってとても幸せなことだ。同時に、今の私の過去の私への好意と、私自身の、未来への配慮もまた、楽しくて、幸せなことだ。

 私たちは瞬間に取り残された孤独な存在などではなく、時間というものによって繋げられている、連続した存在であり、それは疑似的に、他者として扱うことが可能になる、とても愉快な存在なのだ。


 私のものごとを単純化しようとする頭は、ものを考える上ではとても役に立つ。ものを考えるということは、いったんものごとを単純な要素に作り替えて、それを再構築していくことに他ならないからだ。
 しかし、自分自身という複雑な存在を見るときに、そのように考えていくと、自分自身の空虚さやくだらなさ、馬鹿馬鹿しさに唖然とし、絶望してしまう。
 実際、自分のその瞬間の頭だけで再構築された「過去の自分像」が愉快であることなど、まずない。おそらくほとんどの人間もそうであると思う。過去の自分というのは、痛いほど恥ずかしいものであり、今の自分よりはるかに劣った存在である、と考えたくなる。
 しかし実際には、そうでないことも多い。しっかり自分の考えたことや感じたことを文章に残しておくと、私たちは、私たち自身の偏見に気づかされる。私たちは、私たちの過去を実際よりも低いものとして勝手に思い込んでしまうことを、そのとき毎回自覚させられ、喜びとともに、己を恥じるのだ。

 ちなみにそれは、私たち自身の過去ではなく、歴史という広い意味での「人間」にも同じことが言える。私たちは、ずっと古い哲学者たちの実際の言葉に触れると、唖然とする。彼らは、とても優れた存在であり、しかも私たちは、思いがけずも、その優れた彼らの正当後継者であることに気づく。彼らの文章を読み、その価値を認めたという時点で、私たちはその一部を確かに受け継いでいるのだ。
 私たちが不当に低く評価していたものの本当の価値に気づき、それを実感し、自分の中で脈打っていることを感じたその時、人生が空しいものでないことを体で理解する。

 私たちは「単純化し、再構築する」という能力を非常高い形で有している。だからこそ、単純化される前の、すでに誰かが再構築したあとのものに触れるのは、とても重要なことなのだ。それによって私たちは、自分たちという存在が、単純で貧しい存在でないということを理解する。複雑なものを見て取って、それを喜ぶことができるということは、私たち自身が複雑であり、しかもそれが、意味のある複雑さを有しているという、確固とした証拠なのだ。

 単純化することは悪ではない。とても有益な機能だ。しかし強い副作用がある。自分と他者を、単純化して捉えすぎることによって、色々な価値を見過ごしてしまう、というあまりにも厄介な副作用だ。
 だからこそ、私たちは証拠は残さなくてはならないし、頻繁にその証拠を確認しなくてはならない。

 私たちの能力は、忘れっぽさと結びついている。忘れっぽいからこそ、何度も何度も新しく作り直せる。それによってもっと豊かな存在になることができる。
 だから、忘れたものをいつでも取り戻せるように、はっきりと形にしておくことが大切なのだ。

 私たちの「今」は、もうすでに「過去」になっているが、しかしその「作られた過去」は、必然的に将来の「今」の役に立つ。

 それが私たちの弱さによってあるとしても、その捨てられない弱さを抱えて生きることを選んだのは私自身なのだから、それは喜ぶべきことなのだ。

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